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週刊ベースボール60周年記念企画

【週ベ60周年記念企画102】『プロ野球12球団選手写真名鑑』【1960年3月23日号】

 

今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。おかげ様で、まもなく通算3500号を迎える。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。

『青バットよサヨウナラ〜大下弘、涙の引退試合』


表紙は森徹中日)。いまは12人の顔表紙が定番だが、当時は違っていた


 今回は『1960年3月23日号』。定価は30円だが、今回は頭と後ろグラビアがない。すべてセンターグラビアに回し、12球団1ページずつの名鑑と、3月1日、平和台での西鉄・大下弘引退試合が掲載されている。

『青バットよサヨウナラ〜大下弘、涙の引退試合』。グラビアなので文章は短い。そのまま掲載しよう。

 六回裏、場内アナウンスが『ピンチ・ヒッター大下』とつげると、場内に万雷の拍手がとどろいた。大下は二度三度美しいフォームでバットに素振りをくれ左ボックスに入る。二つファールしてカウントは2−2。中川の投ずる第五球を発止と打つと打球は深くセンターに飛んだ。

 七回の守備を守り終わって大下がベンチに戻ると蛍の光が奏でられ、両軍選手整列して見送る中を背番号「3」は観客の拍手に手を振って応えながら、静かに球場から消えていった。

 しかし戦後昭和二十一年青バットから叩き出すホームランの魅力によってプロ野球ブームの先駆者となって以来十四年。この間に残した幾多の不滅の記録とともに、大下弘の名は永久にファンの脳裏から消え去らないだろう。

 当時でもやや硬い原稿は、ベテラン記者の手によるからだろうか。本文巻頭では同じ試合を『新監督川崎と新主将中西の苦悩〜三原・大下の去ったライオンズ』という記事で特集。こちらは一転、意外とチケットの売れ行きが悪かったことですねた大下が、引退試合の中止も言い出していたという内幕話や川崎徳次新体制の危うさに触れた記事をやや辛口で掲載していた。

 青バットの大下に対し、赤バットの川上哲治の話もあった。

 キャンプで打撃練習をしていた若手の覇気のなさに憤ったのか、自ら打席に入ったヘッドコーチ、川上の逸話だ。

 見本となるつもりだったのかもしれないが、10球を打ち、ヒットはなし。ただ、名言とは言わないが、ケージを出た川上の言葉は渋いことは渋い。

「どうだ。いまのバッティングは。二十年間、わしの体にしみついていたバッティングであったが、恥ずかしいことになんというザマだったろう。

 まったく恥ずかしいことだ。だが、これが当たり前なのだ。わしは1年間、全然練習をしていない。だから打てないのだ。練習しないことが、どんなに恐ろしいことか。怠けることが、どんなにいけないことか。分かったな」

 なお、この号に関し、会社で保存しているものは18ページから27ページに飛び、19から26ページが59ページの前になっていた。

 いわゆる乱丁(綴じ間違い)なのか、あるいは27から58ページは、ほかとは違う赤みがかかった紙だったので、あえて飛ばしたのか、はたまた、それはこの本だけの乱丁なのか……。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM
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