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追悼・星野仙一

追悼企画21/星野仙一、野球に恋した男「まさかの阪神監督就任へ」

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略)

最愛の家族の応援も後押し


2002年12月18日の阪神監督就任会見。左が久万オーナー


 2001年限りで中日監督退任。その後は、ふたたびNHKの解説者に復帰する予定だった。

 しかし、同年12月5日、阪神・野村克也監督が夫人の脱税もあって急きょ退任。星野の周囲も一気あわただしくなる。

 12月7日、大阪市内の阪神電鉄本社で緊急役員会が開かれ、阪神の次期監督について話し合われた。最初に出たのが岡田彰布二軍監督の昇格案だったが、44歳という若さもあっても見送られ、次がともに02年限りで退任した仰木彬オリックス前監督、そして星野中日前監督だった。最終的には久万オーナーの強い推薦もあって星野監督要請に一本化。久万オーナーは自ら中日・白井文吾オーナー、解説予定だったNHKの海老沢勝二会長に連絡を入れ、理解を求めた。

 もちろん、はすぐ「ああそうですね」と即決したわけではない。ただ、

「客観的な意見として、みんな男気を見せないといけない。東京のことだけ、大阪のことだけ、名古屋のことだけを考えていてはダメ。球界全体のことを考えないと」

 とも語っている。この連載を読んでいただいている方なら分かっていると思うが、星野は入団時から自身が阪神ファンだったことを隠していない。その阪神が、当時リーグのお荷物のような存在になっていた。最愛の家族も応援も後押しした。

「娘2人とも、すぐ『パパの好きなようにすれば』と言ってくれた。女房が生きていても、同じことを言ったと思う。女房から教育を受けた娘が好きなようにと言うてくれたんやからな」

 女房──97年1月に死去した扶沙子夫人である。

 ただ、「吉田(義男)さんや村山(実)さん(故人)が阪神以外のチームに監督に誘われたら、阪神ファンはどう思うのか」とも。長く自身を応援してくれた中日ファンが、どういう反応を示すかということへの不安もあった。

 12日、久万オーナー自らが出席しての就任要請。その後、「弱い球団を助けてくれと。そこまで言われた。男冥利につきる」と語った。事実上の就任承諾宣言だ。

 気になった中日ファンについては「あるファンがテレビ局で『関西に貸してあげる』と言っていた。うれしかったな。『行くな』というファンもいた。でも、それもうれしい。俺を大事にしてくれているという証拠だからな」と語っている。

 実際、星野監督の退任即の阪神監督就任に、寂しさや怒りを感じた中日ファンは多かったが、一度腹を決めた星野監督は迷うことなく、突き進み始める。

 01年12月18日、大阪市内のホテルで阪神監督就任の記者会見。初めて阪神球団旗の前に座り、「タイガースを戦う男、戦う軍団にしたい。目をつり上げて、火の玉のごとく戦える人間を育ててみたい」とチームに星野イズムを植え付けることを誓った。

「コイツらを勝たせてやりたい」と思った


 今回はその前後の心境について「阪神80年史」でインタビューした際の自身の言葉を抜粋しよう。

 僕が進退を迷っているときに長嶋(茂雄)さんから電話があったんだ。そこで長嶋さんは「仙ちゃん、何を迷っているんだ」と。続けて「もう伝統の『巨人―阪神戦』じゃないんだ。ジャイアンツは頑張っているんだよ。でも、タイガースが全然ダメじゃないか」とおっしゃった。確かに阪神は4年連続で最下位に沈んでいたし、もう死に体だった。「お前がユニフォームを着て、伝統の『巨人―阪神戦』をよみがえらせろ!」という長嶋さんの熱いメッセージが、僕の背中を押してくれたのは間違いなかった。その分、責任をひしひしと感じたよ。ただ、僕のやり方は自分で自分にプレッシャーをかけて、それを打ち砕いて前に進んでいくこと。僕は有事じゃないとダメな男なんだ(笑)。

 それに、僕は子どものころから阪神ファンだったから。中日の監督を務めているとき、阪神に勝っても「お前ら何をやっているんだ!」という思いがあった。ちょっとこっちがリードしたら、すぐにあきらめてしまう雰囲気を感じて。僕のあこがれのタテジマを着て、何をテレンコテレンコしているのか、と。そういえば野村(克也)監督のころかな。オープン戦で井川(慶)が先発してきて、フォアボールばかりでゲームにならなくて。頭にきて、ゲーム後に「井川にもう1度、キャンプをやり直しさせろ」と言ったこともあった(笑)。とにかくタイガースのことは常に気になっていたんだよ。

 当時は監督人生、野球人生はここで終わりだと覚悟をしていた。だから、関西に骨を埋めよう、と。例えばホテル住まいだと腰掛けのような感じがするだろう。選手やファンとの絆も薄っぺらいモノになってしまう感覚もある。だから、借家でもいいから、どっしりと腰を落ち着けていこうと考えた。やっぱり、腹を据えないと。16年も優勝していなくて、伝統のある球団がセ・リーグの中でお荷物球団になっていた。それを変えるには、人生を懸けて監督業に取り組んでいかないと無理なことだろう。

 中日の監督として見た阪神の選手の印象は「心が冷めている」だった。そういうこともあったからかな。僕はだいたい挨拶するときも何を言うか考えないでいく。その場の雰囲気を見て、言葉を発する。キャンプ前日のミーティング。僕はいきなり「オレは優勝させるために来たんだ!」と言った。みんな「エッ」とびっくりした感じだったけど、そこにたたみ掛けて「そう思わないヤツはここから出て行け!」と。もちろん、誰も席を立たなかった。なんかみんなギラギラした目付きになって、そのときに「コイツらを勝たせてやりたい」と思ったね。

<次回へ続く>

写真=BBM
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