今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 「低迷するライオンズの内情」
今回は『1960年5月25日号』。定価は30円だ。グラビア巻頭は『闘う三原と水原』。5月3日からの
巨人─大洋3回戦で、この時点で巨人は1位、大洋が5位だったが、因縁の巨人・
水原茂監督、大洋・
三原脩監督の東京初対決とあって大いに盛り上がる。試合前の花束贈呈で互いに3メートルは距離を置き、しかも目も合わさなかったことでも話題となった。
本文でも巻頭から『三原・水原後楽園の対決』と題して特集がある。その中に「後楽園サロン事件」があった。59年暮れ、スポーツ新聞の新年企画で、後楽園のホームプレート近くで水原、三原両監督をユニフォーム姿で撮影するというものがあった。2人は時間どおりに後楽園のサロンに現れたのだが、準備されたユニフォームを見て、三原監督がまず「大洋のアンダーシャツがなければダメだ」と言って運動具店から取り寄せさせ、次に「ユニフォーム用のバンドがない。洋服用では駄目だ」と言って後楽園球場の関係者から借りさせ、さらには「ユニフォームが合わない」とごねた。
これは体つきが近いだろうと、谷口五郎コーチから借りたものだったが、三原監督は「ユニフォームはプロ野球選手の晴れ着だ。体に合わないものを着て、晴れがましい元旦の新聞紙上をけがしてはプロ野球ファンのために申し訳ない」と撮影会自体を中止させてしまった。ほぼクレーマーだ。
この間、およそ2時間。水原監督は何度も口添えしたが、三原監督は頑として聞かず。今度は水原監督が怒り、翌日、通信社が企画していた2人の対談をボイコットしてしまった。
これは、ある意味、三原監督の策略でもある。打倒巨人、打倒水原で話題を作り、大洋への注目を集める。さらには、自らの闘う姿勢で、選手たちの負け犬根性を払しょくしようという腹だったのだろう。ただ、いかんせん6年連続最下位のチームである。初戦に0対4と完敗した後、三原監督は「まあ、こんなものだ。本当に巨人と対等に戦うには、あと2年かかる。この2年間で自分の思うようなチームさえ、つくらしてくれたらな。まあ、諸君、二年後をみてくださいよ」と笑顔で語っていた。奇跡はまだ、当事者たちも予感していない。
対して三原監督の古巣西鉄は主砲・
中西太の故障もあって下位に。「低迷するライオンズの内情」では、孤軍奮闘していた
豊田泰光の「みんなだらしなすぎる。もっとファイトを燃やさんといかん。球を怖がってどうする」の言葉も載っていた。
センターグラビアは『302勝の笑顔』。4月29日の
阪神戦で、
スタルヒンを抜く通算最多302勝を挙げた巨人・
別所毅彦の特集だ(スタルヒンはその後、記録見直しで303勝に)。
本文では、志村正順の司会で、横綱・栃錦清隆と対談していた。302勝時の心境について「自分で投げていて一球一球、投げたあとで、その球を批評できるくらいの余裕があったですね。ああ、いまのいけねえやとか、いまの球は面白い球だなというようなことを自分で考えながら。いわゆるマウンドで遊ぶというんですか、それだけのゆとりがあったですね」と語っている。
かつては愚直なまでに速球一本で攻めたが、このころはチェンジアップを駆使し緩急を使った円熟のピッチングを見せていたようだ。
なお、現在、週刊ベースボール60周年企画として「週べでつづる12球団史」を制作中。第1弾は3月14日発売予定の巨人編だ。この連載の筆者も微力ながら手伝っている。突然、本連載が休載となったときは、締め切り間際でドタバタしていたんだろうと、ご推測を。
では、またあした
<次回に続く>
写真=BBM