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石田雄太の閃球眼

【石田雄太の閃球眼】広報もチームの大いなる戦力

 

宮崎・清武町で行われているオリックスの春季キャンプ。平日でも多くのファンがキャンプ見学に訪れる


 宮崎で魚のうまい店に出掛けた。

 こぢんまりとした店は初老の夫婦が切り盛りしていた。カウンターの前には3つの水槽が並べてあり、中にはメジナ、イサキ、オマールエビ、イセエビ、フグが泳いでいる。そして、3つのうちの1つの水槽を独占していたのが、唇の分厚いクエだった。

 店の水槽で泳いでいる魚を見るのは、正直、あまり気分のいいものではない。やがて美味しくいただく魚が、目の前にいる。それが人間の業だと分かってはいても、ほどなく捌かれる魚で、しかも狭い水槽に移されてストレスを感じないはずがない環境で、さぞかしつらいだろうなと思ってしまう。普段はそこまで思い至ることはないのだが、なぜかその店ではそんなことを考えていた。

 理由がある。
 
 それは、そのクエと目が合うからだ。何度、目を逸らしても、気になってチラ見すると、確かにこちらを見ている。思い切って水槽に顔を近づけてみたら、クエが尾を振って応えるではないか。明らかにクエとの間にコミュニケーションが成り立っているのだ。そんなバカな、と思っていたら、店の女将が突然、大声を上げた。

「ゴンタ!」

 驚くなかれ、クエに名前があったのだ。水槽に入れる魚にいちいち名前を付けているのかと思ったら、そうではなかった。なんとそのクエ、店のご夫婦に飼われていたのである。この水槽の中に、もう8年もいるのだという。

「仕事が終わると、水槽に手を突っ込んでゴンタの全身をなでてやるんですよ。喜びますよ。エサはアジをやってます。ときどき、興奮してバシャーンと水槽の中で跳ねますんで、気をつけて下さいね」

 いやいや、驚いた。

 魚の旨い店で、マスコットのように飼われているクエ。道理で目が合った気がしたわけだ。明らかにクエのゴンタは、客とコミュニケーションを取っている。まもなく喰われる運命にあるわけではないと知った途端、クエが、店の主のごとく、堂々と泳いでいるように感じられるから不思議なものだ。

 同じ景色が違って見える。

キャンプ中、こんなことがあった。その日は青空は広がっていたものの、気温が低く、吹き抜ける風があまりにも冷たい一日だった。にもかかわらず、キャンプを見に来る野球好きはいる。平日だったため決して多いとは言えないながらも、それなりの数の観客がバファローズの選手を見ようと清武の山の中へ足を運んでいた。

 午後4時を過ぎて、冷え込みがきつくなってくる。観客は選手のサインをもらえるわずかなチャンスに期待して、正面で出待ちを始めた。もらえないものだと思ってはいても、期待していないはずがない。選手のほうからファンのもとへ歩み寄って、時間の許す限りサインをしてくれるはずだと、寒い中、待っている。そこで選手たちが誰一人としてサインに応じることなくバスに乗り込んだら、待っていた人たちの目にその景色はどう映るだろう。

 その日がそうだった。選手たちはサインに応じなかった。いや、応じられなかった。じつはその日は選手会主催のミーティングがあり、選手たちは急いでホテルへ戻らなければならなかったのだ。だからファンにサインをしたくても、できなかったのである。

 ところが、そんな選手たちに野球好きは笑って手を振っていた。なぜならその直前、バファローズの広報・仁藤拓馬さんが球場の外へ出てきて、説明していたからだ。

「今日は選手たちのミーティングがあって、ホテルへ急いで戻らなければなりません。寒い中、お待ちいただいて大変申し訳ありませんが、今日はみなさまにサインをする時間を取ることができませんので、なにとぞご理解下さい」

 仁藤さんといえば2006年の春、静岡県大会を制した島田商のエースだった。その後、バファローズに入団しながら、ヒジにメスを入れたり、体調を崩すなどして、プロ生活4年で戦力外通告を受け、現在は広報を担当している。

 練習が終わり、選手たちがホテルへ戻ろうかというその時間帯、仁藤さんは寒い中、待っているファンに思いを馳せ、事情を説明するために外へ出た。それを知ってサインに応じない選手たちを見送るのと、知らずに唖然とさせられるのとでは、同じ景色でもまったく違って見えたに違いない。

 クエと選手、見る側に自分の置かれている状況を説明できないという点では同じだったりする。そういう状況に誰かが気づき、代わりに知らせてあげられれば見る側の目も一変するし、見られる側も救われる。広報もチームの大いなる戦力の一人なのである。

文=石田雄太 写真=佐藤真一
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