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追悼・星野仙一

追悼企画30/星野仙一、野球に恋した男「日本シリーズ直前に走った激震」

 

 星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。
 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略)

届かなかった日本一


日本シリーズ第1戦を前にダイエー・王監督と握手を交わす


 2003年、18年ぶりのリーグ優勝を決めた阪神。日本シリーズの相手は、星野監督が現役時代、幾度となく名勝負を演じ、1999年の中日監督時代には指揮官同士としての対決もあった王貞治監督率いるダイエーだった。星野監督は「ファンに感動を与えられるような、歴史に残る日本シリーズにしたい」と笑顔で意欲を語っていた。

 しかし、日本シリーズを2日後に控えた10月16日の夜、激震が走る。

 午後11時30分に通信社が「星野監督勇退」の一報を出し、以後大騒動となった。

 この16日、阪神は第1戦の地、福岡への移動日だったが、星野監督は新幹線移動のチームとは別行動を取り、一度、大阪から羽田に飛び、いきつけの理髪店で散髪。そこから再び空路で福岡空港へ降り立った。

 午後5時前に宿舎のホテルにつき、新聞各紙のキャンプと喫茶店で恒例の懇談会。この時点で記者たちは、翌17日に発売される週刊誌の記事のコピーを回し読みしていた。星野監督が日本シリーズ後に勇退の意思を固めた、という内容だった。

 懇談会でも、この記事が話題に出たが、星野監督は「こんな大事な時期にそんな記事が出るなんて、俺を辞めさせたいのか」と苦笑交じりで話しながらも、特に怒った様子はなかったという。

 翌日の朝刊から一斉に報道が始まった。勇退の最大の理由は、やはり健康問題。まだ56歳ながら、高血圧、胃潰瘍などの持病も多い。かねてから「阪神で1年監督をやるのは、よそのチームで5年やるくらい疲れるで」と公言していたが、のちに明かされた話では球団に申し出たのは1カ月以上前で、主治医には「続ければ命にかかわる」と言われていたという。

 本心では「すべては日本シリーズが終わってから自分の口で」と思ってたはずだ。ただ、表に出てしまったものは仕方がない。17日、前日練習に向かう前、選手、コーチ、スタッフ全員を招集した星野監督は、私事で皆に動揺を与えてしまったことをわびたという。

 日本シリーズは激闘となる。まず敵地福岡での2戦に連敗。しかし、甲子園に戻ると2試合連続サヨナラ勝ちを含む3連勝で王手だ。第4戦、金本知憲のサヨナラホームランで2勝2敗とした後、星野監督はお立ち台で「何が起こったのか。夢を見ているようや」と語った。

 死力を尽くした闘将に、野球の神様は「日本一」をプレゼントするのか、と思ったが、舞台が福岡に移ると、またも連敗。日本一には届かなかった。

 10月28日、新監督・岡田彰布監督とともに会見に挑んだ星野監督の表情は晴れ晴れとしていた。

「正直、未練がないわけやない。もう少し若かったらまだやれとったかもしれん。でも、この2年間ずっと全力疾走だったからな。ほんまおもしろかったわ」

<次回へ続く>

写真=BBM
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