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背番号物語

【背番号物語】「#70〜79」(後編)稀代の名将から闘将が継承した「77」

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

秋山のデビューナンバー



「70」とは対照的に、「71」には監督が多い。近鉄では仰木彬監督がコーチ時代から着け続け、1988年の“10.19”や翌89年の雪辱も「71」で指揮を執っている。ヤクルトを初優勝に導いた広岡達朗監督が着けていたのも「71」。ちなみに、参謀として広岡監督を支え、のちに西武で監督の座を継承した森昌彦ヘッドコーチが着けていたのは続く「72」だ。

 その西武でプロ1年目に「71」を与えられたのが秋山幸二だ。当時の監督は「68」で紹介した根本陸夫で、大学進学を希望していた秋山に得意の“寝技”で猛プッシュ。ドラフト外での入団ゆえの大きな背番号だった。のちに秋山は根本が監督となっていたダイエーへ移籍。根本は現場から去ったが、秋山は両チームを黄金時代に導く立役者となり、のちにソフトバンクとなったチームで二軍監督となって、1年だけ「71」に“復帰”した。

「72」にも、昭和の広島黄金時代を築いた古葉竹識監督、オリックスとなって初のリーグ優勝、連覇に導いた仰木監督、そして98年に横浜38年ぶりの優勝、日本一を演出した権藤博監督と、優勝監督が並んでいる。

「73」は捕手出身の名将が2人。まずは“ID野球”で一世を風靡したヤクルトの野村克也監督で、「足して10になる数字がいい」という哲学に基づいての背番号。続いては近鉄でコーチ時代から背負い続け、そのまま最後の監督となった梨田昌孝監督だ。一方で、伊原春樹監督も西武、オリックス、西武と3度にわたって「73」で指揮を執り、最初の西武では就任1年目の優勝を達成。“オリックス・ブルーウェーブ”最後の監督でもある。また、巨人長嶋茂雄王貞治というスター監督の後を受けて、ともに就任1年目から「73」を背負って優勝に導いたのが藤田元司監督だ。

「74」は中日黄金時代を支えた左腕のチェンが来日1年目に着けたナンバー。台湾の先輩でもある大豊泰昭スカウトの熱心な勧めで、台湾の学生という身分のままの入団だった。

「75」は加藤博一が最初に着けた背番号。西鉄にドラフト外で入団して、「75」で一軍デビューも果たしている。西鉄には広島でノーヒットノーランを達成した藤本和宏も「79」にいて、70番台から名選手を輩出した歴史を持つ西武は近年も大きな背番号に選手が多い。

「76」は広島が初優勝を飾った75年に、ルーツ監督から古葉監督への橋渡し役を務めた野崎泰一監督代行が着けていた背番号。指揮を執ったのは4試合だけだったが、広島の栄光には欠かせない1ページと言えるだろう。

V9と3チームでのV


中日・星野仙一



 現役時代の「16」のまま指揮を執っていたが、65年に「77」へと変更すると、そのまま空前絶後のV9へと巨人を導いたのが川上哲治監督だ。

 その巨人を現役時代にライバル視してV10を阻み、中日、阪神楽天の3チームで「77」を背負ったのが星野仙一監督だ。すべてのチームを優勝に導き、特に楽天は東日本大震災を経ての初優勝、日本一で、楽天は「77」を永久欠番とすることを検討しているという。実現すれば監督の背番号が永久欠番となる初の事例となる。「77」では、ヤクルトの真中満監督も2015年の優勝監督だ。

 中日と阪神で星野監督を参謀として支えた島野育夫コーチが着けていたのが「77」に続く「78」。“史上最大の下剋上”を完成させたロッテ西村徳文監督、18年もオリックスの福良淳一監督が着けている指導者のナンバーだが、現役選手でも西武の藤澤亨明が着けていて、系譜にも好選手が多い。

 巨人で09年に15勝を挙げたゴンザレスがヤクルト時代に着け、さかのぼるとオリックス時代の門田博光が在籍した2年だけ着けた4つめの背番号だ。それまでのように本塁打数の目標ではなく、易者の占いによって決めたという。

「79」の筆頭格は広島を連覇に導いた緒方孝市監督だろう。さらなる黄金時代で、「79」に新たな印象を築くことになるか。

写真=BBM
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