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背番号物語

【背番号物語】「#0」背番号の歴史における異色のエポック

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

長嶋清幸がエポックメーカーに



 野球というスポーツは、グラウンド上にある1つのボールをめぐって展開される。ボールの数は「1」だ。打者が持つバットの数も「1」……等など、“数えられる”数字より、“無”を意味する「0」は登場が遅く、数字の歴史的にはエポックなのだという。数字の難しいことは分からないが、プロ野球の背番号においては、間違いなく他の数字よりも登場は遅い。

 1936年秋に中日の入団テストを受けて入団した西沢道夫が着けたのが最初という説もあるが、当時の西沢は15歳。現在の中学3年生と同じ年齢で、練習の手伝いをしていただけだったというから、いわば「0」の“第0号”といったところか。

 日本で初めて選手の背番号としての「0」を背負ったのは広島の長嶋清幸。メジャーで最初に着けたエクスポズのアル・オリバーが82年にナ・リーグの首位打者に輝き、長嶋が古葉竹識監督に相談して83年に着けたものだ。

 その83年に長嶋は外野の定位置をつかんで全試合に出場、84年の阪急との日本シリーズで劇的本塁打を連発して、背番号「0」は一気に浸透。長嶋の活躍がなければ、「0」の選手は長嶋が最初で最後になっていたかもしれず、背番号の歴史でも長嶋の「0」は大きなエポックとなった。

 のちに移籍した中日では3代目、阪神では2代目の「0」にもなった長嶋の存在感は、登場から30年を経た現在でも「0」の系譜で圧倒的だ。

【12球団主な歴代背番号「0」】
巨人 川相昌弘木村拓也大村三郎藤村大介吉川尚輝☆(2018〜)

阪神 中野佐資、長嶋清幸、吉田浩中村豊大和

中日 藤王康晴種田仁、長嶋清幸、ルナ、高松渡☆(2018〜)

オリックス 野中崇博、本西厚博森山周、鉄平、山崎福也☆(2018〜)

ソフトバンク 立石充男佐々木誠島田誠石毛宏典高田知季

日本ハム 大畑徹松浦宏明長冨浩志古城茂幸

ロッテ 初芝清吉田篤史諸積兼司荻野忠寛荻野貴司

DeNA 青山道雄石井琢朗万永貴司小関竜也山崎憲晴

西武 羽生田忠克河田雄祐高波文一大崎雄太朗水口大地☆(2018〜)

広島 長嶋清幸、高信二、木村拓也、井生崇光上本崇司

ヤクルト 柳田浩一(昌夫)、城友博代田建紀志田宗大比屋根渉

楽天 酒井忠晴佐藤宏志内村賢介島井寛仁☆(2018〜)
(☆は現役)

守備の名手と新天地のベテラン


巨人・川相昌弘


 勝負強い左のスラッガーだった長嶋だが、このタイプは少数派。ロッテでは初芝清が出世番号としているが、全体では内野手で巨人の川相昌弘、外野手ではオリックスの本西厚博ら守備の達人が多いナンバーだ。広島で長嶋の後継者となり、巨人で川相の後継者となった木村拓也らユーティリティーも目立つ。

「ゼロからの再出発」という意味合いもあり、1ケタの背番号がふさわしいベテランが移籍した新天地で1ケタの背番号が埋まっていたために着けたケースも少なくない。西武からダイエーへ移籍した石毛宏典が好例だ。

 チームごとの系譜としては、やはり発祥の広島では厚遇されている印象がある。異色なのは日本ハムで、松浦宏明、長冨浩志ら稀少な投手が2人も並んでいるだけでも異例だが、2007年にピタリと継承がストップ。背番号の系譜で他のチームと明確に一線を画す日本ハムらしい措置と言えるだろう。

写真=BBM
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