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背番号物語

【背番号物語】「選手の永久欠番」受け継がれることのない栄光の物語

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

ファンの背番号物語



 日本人の好きなものは「巨人、大鵬、卵焼き」と言われ、その巨人がV9を謳歌していたころだろうか。銭湯の下駄箱は「1」と「3」から埋まっていったという。もちろん「1」とは王貞治であり、「3」とは長嶋茂雄だ。王と長嶋が銭湯に来たわけではない。王のファンが「1」に、長嶋のファンが「3」に、競い合って履物を入れた、ということだ。銭湯の下駄箱も昔話になりつつあるが、その情景からは、ファンが身近な下駄箱の「1」や「3」を経て、遠くの王や長嶋と少しばかりの一体感を味わっていた姿が見えてくる。

 近年は球団のサービスも行き届いていて、2004年12月17日には楽天が「10」をファンの背番号として永久欠番としたが、かつてはファンそれぞれが好きな選手の背番号を自らの“背番号”としていたのだ。その「1」も「3」も、もう選手の背中に輝くことはない。折々に触れてきたが、選手の永久欠番を制定された順にあらためて追ってみる。

 ちなみに、選手のものではない永久欠番としては、楽天に続き、09年2月1日に日本ハムで初代オーナーだった大社義規が1981年のリーグ優勝時に着ていたユニフォームの「100」が永久欠番に。「100」は東映時代もオーナーの“背番号”で、初の日本一を果たした62年には名物オーナーだった大川博も「100」のユニフォーム姿でグラウンドにも登場している。

【選手の永久欠番一覧】
1947年7月9日 巨人「4」黒沢俊夫

1947年7月9日 巨人「14」沢村栄治

1958年11月30日 阪神「10」藤村富美男

1959年3月15日 中日「15」西沢道夫

1960年3月20日 中日「10」服部受弘

1965年1月18日 巨人「16」川上哲治

1970年4月2日 巨人「34」金田正一

1972年11月2日 阪神「11」村山実

1974年11月21日 巨人「3」長嶋茂雄

1986年10月27日 広島「8」山本浩二

1987年9月21日 広島「3」衣笠祥雄

1987年10月13日 阪神「23」吉田義男

1989年3月16日 巨人「1」王貞治

2012年5月1日 西武「24」稲尾和久(西鉄)

2016年11月1日 広島「15」黒田博樹

最初は人柄を偲んで


巨人・黒沢俊夫


 永久欠番が悲劇から始まったことは序章の巨人で触れた。「ひとえに黒沢(俊夫)の人柄」とは千葉茂の弁だ。黒沢は47年シーズン中に急死。およそ半月後に永久欠番となり、これを機に戦死した沢村栄治の栄光も顧みられることとなった。

 その後はすべて実績を称えた制定となる。12年に西武で稲尾和久の「24」が永久欠番となったが、親会社の違うチームの背番号が永久欠番になるのは異例。選手の死後に制定されたのは黒沢と沢村に続く3例目となった。

 背番号が選手のトレードマークとなっていても、“チームひと筋”の実績でなければ永久欠番にはなりにくい。張本勲の「10」、野村克也の「19」などは好例だろう。金田正一の「34」が巨人で永久欠番になったのが唯一の例外。メジャーを経た黒田博樹も日本では広島ひと筋だ。一方、鈴木啓示の「1」は近鉄の消滅で唯一の“失効した永久欠番”となっている。

 ヤンキースでは1ケタの背番号すべてが永久欠番となった。永久欠番は選手への称賛とともに、背番号の物語上では、系譜の断絶でもある。選手全員がチームの永久欠番を着けるようなイベントは別の物語だ。映像で永久欠番の選手を見ることはできても、グラウンドで実際に輝く背番号に古い名選手の面影を見ることはできない。未来のプロ野球へと思いを馳せたとき、いまグラウンドで躍動している名選手の背番号が、そのグラウンドに受け継がれていなかったとしたら、いささか寂しい気がする。

写真=BBM
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