週刊ベースボールONLINE

編集部員コラム「Every Day BASEBALL」

心から願う川崎宗則らしい“電撃復帰”

 

ダイエー時代の川崎宗則


 一塁ベンチから猛ダッシュで飛び出していく。本拠地・福岡ドーム(当時)の1回表の守備で「ショート・川崎!!」が場内アナウンスされると、レフトファウルグラウンドまで全速力で走り抜け、スタンドの観衆へボールを投げ込む。スタンドに激突してしまうのではないか、心配してしまうほどのトップスピードだった。

 あの元気な姿が見られるだけで、ファンとしては、球場に足を運んで良かったと心から思えたはずだ。いつも、前向き。かつて、ホークスを率いた王貞治監督は城島健司捕手に対して「選手にとっては長いシーズンの1試合かもしれないが、ファンにとっては一生に一度の試合かもしれない」と、一流プロとしての心構えを説いたことがある。城島から川崎宗則にも継がれた鷹のDNAだった。

 2002年2月、高知キャンプ。日南学園高からドラフト1位で入団した「寺原隼人フィーバー」に沸くなか、ホークス担当として初めて川崎のプレーを見た。

 鹿児島工高からプロ入り3年目。二軍で実績を積み上げ、前年に一軍デビューし、今季こそは一軍定着!! という時期である。前担当者からの引き継ぎで「これからのホークスを背負っていく期待の若手」と、背番号52を紹介された。「よろしくお願いいたします!!」。川崎は少年のような、澄んだ目をしていた。

 のちの活躍はここでは触れないが、川崎を支えたのは練習量である。春季キャンプでホテルに戻るのはいつも、一番最後。過去に12月の自主トレに体験入門取材させていただいたことがある。そのメニューの壮絶さは、文字では表現できない。宿舎は温泉宿の一部屋で、川崎を慕って帯同した選手、個人トレーナー、サポートメンバーが雑魚寝をしていた。

 プロでありながらそこは、まるで、強化合宿のような空間。楽しそうだった。新年合併号の正月用インタビューは彼らの荷物を端に寄せ、その一室で行った。プロの「自主トレ」と言えば、1月から本格始動するものだと思っていたが、川崎は年内から次シーズンへの準備を行っていた。自主トレの固定概念を覆す猛特訓だった。そうした下積みにより、野球人・川崎宗則は作られたのである。

 若いころ、最も嫌っていたのは「サツロー」と呼ばれることだった。幼少時からイチローを尊敬し、目指す選手像であることは間違いなかった。高校時代は「薩摩のイチロー」と言われることもあったが、本人の中では決して喜ばしい呼称ではなかったという。一軍で確固たる実績を残すまでは“イチロー信者”を認めることも拒んだ。

「ムネリン」の愛称も、当初は現実として受け入れ難かったようだが、球界で不動の地位をつかんで以降は、自ら発信するようになった。「人気先行」を嫌っていたのは明らか。冒頭のように一軍デビューのころは、元気印と全力プレーでファンのハートをつかみ、ステップアップしていく中で、NPB、MLBを通じて「KAWASAKI」というキャラクターが定着していったのである。

 今回、開幕を前にしてソフトバンクを自由契約となった。川崎が川崎を演じ続け、さらに故障も重なり、心身の疲労は相当だったはずだ。いったんは「退団」となっただけで「引退」ではない。球団もサポートを約束しているという。まだ、36歳。いまはしっかりと充電し、周囲があっと驚く、川崎らしい“電撃復帰”を心から願っている。

文=岡本朋祐 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング