今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 藤村富美男がスワローズのコーチに
今回は『1962年12月17日号』。定価は40円だ。
ウワサどおり、西鉄・
豊田泰光の国鉄移籍が決まったという話は前回。
今回は豊田本人、西鉄・
中西太兼任監督、稲尾和久への取材記事が載っていた。
中西は、「チームワークのことを考えれば豊田が出ていったほうがプラスだ」と言い切った。
中西と豊田は西鉄の打の二枚看板。この年はともに兼任で中西が監督、豊田が助監督となったが、ともに故障に苦しんだ。
ただ中西が44試合の出場に終わったのに対し、豊田は130試合出場。「俺はケガをしても出ているのに、太っさんは情けない」と思っても仕方がないだろう。
豊田はそれを胸のうちにではなく、マスコミの前でも平気で口にした。
2人の相性の悪さは昔からだ。いつもおおらかな中西に対し、一言多く、しかも辛口の豊田。監督就任前は我慢し、「あいつは口か悪いからな」ですませていたが、指揮官になった自分に対し、選手やマスコミを前にした批判は、豊田が助監督だっただけに許せなかったようだ、
中西だけではなく、歯に衣着せぬ豊田に腹を立てていた選手は多かった。
ただ、黄金時代の西鉄、V9時代の
巨人にしても、ふだんは仲が悪くてもグラウンドに出たら一つになった。
野武士軍団も、ヤワになってきたのか。
退団発表から、いまだ福岡に帰っていない豊田にも直撃。さまざまな質問に対し、西鉄への感謝を語っていたが、移籍については「いまは僕の口からは言えない」だった。
稲尾は、ほぼノーコメント。中西、豊田のどちらとも仲がよかった。
7勝に終わった不満分子の
堀本律雄を交換要員に大毎・
田宮謙次郎獲得に動いていた巨人だが、田宮が残留を求め、永田雅一オーナーに直訴したことで立ち消え。
最終的には堀本─
柳田利夫とのトレードとなった。
国鉄のコーチにミスタータイガース、
藤村富美男が就任。
「私の仕事は過去の藤村、タイガースの藤村ではなく、スワローズに溶け込んだ藤村富美男になることだ」
と力強く語りながら「一つ心残りは」と、大阪と東京、夫人と離れて暮らすことを挙げた。
夫人のきぬさんは、先妻が亡くなった後の後妻。生前、お話を聞いたことがあるが、本当に優しい人だった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM