長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 マウンドと一塁を結んだ延長線上に……
福本豊が初めて盗塁王になったのは1970年で75盗塁。その翌シーズンから阪急の本拠地・西宮球場の三塁側内野席、それも、それほど観客が詰まっていないやや外野寄りの場所に、しょっちゅう8ミリカメラを手に、グラウンドの動きを写している男がいた。
いま、ネット裏席には各チームのスコアラーが並んでビデオカメラを回しているから、さして珍しくはないが、まだビデオカメラなどないころ、それは珍しい光景だった。
その男の席は、ちょうどマウンドと一塁を結んだ延長線上にあった。やたらに8ミリカメラを回していたわけではない。福本が一塁走者になったとき、初めてカメラを操作し始める。周囲に、そう人がたくさんいるわけではないし、その男は球団関係者でもない。いまのように“情報戦”が神経質なほど騒がれるような時代ではなかったから、その男のことはあまり話題にならなかった。
「それまでは、ただがむしゃらに走って、相手の捕手が慌てて二塁へ低投したり、高投したりして、盗塁数が増えていくのが、楽しみな程度」だった。それが「盗塁というプレーの奥の深さを知るとともに欲が出ていって……」。
その8ミリカメラが、その翌年からの“世界の盗塁王・福本豊”へのスプリング・ボードとなった。
初めて盗塁王になった年のオフ、11月7日の誕生日、夫人が「記念とお祝いに何をプレゼントしますか?」と言うのに答えたのが8ミリカメラだった。
その男は熱烈な阪急ファンで、福本とも親しいカメラ店店主。男は、マウンドと一塁を結んだ線の後方席から、「一塁走者・福本」がリードを取るたびにカメラを回す。狙いは、その向こうに見える投手の動きだ。
新しい盗塁王が出現してきたということで、相手バッテリーの警戒ぶりも厳しくなっていた。投手のけん制もしつこくなってきた。時に、しつこいけん制のあまり、リードが小さくなったり、スタートで一瞬の遅れをとったりもした。福本には、それが悔しかった。
投手が打者に向かって投げようとしているのか、一塁のけん制球を投げようとしているのか、それを事前に分かることはできないか。投手が、ある動きを見せることによって、その動作が打者に向かって投げるときの前兆と分かっていれば、思い切って二塁へ向かってスタートすることができる。
「投手が打者へ向かって投げると同時に走る」とよく言われるが、「同時」では勘のいいバッテリーに刺されてしまう。「投手が打者へ向かって投げる寸前に」走り出してこそ確実に盗塁ができる。そのための「8ミリカメラによる分析」だった。
写真=BBM