今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 ホクロを取った藤本定義監督
今回は『1962年12月24日号』。定価は40円だ。
この号もオフネタが多い。
巻頭は突然香港旅行に行ってしまった
巨人・
長嶋茂雄の話。一般週刊誌では、結婚の噂がかなり高まっていたようだが、とりとめがない(ような気がした)ので割愛しよう。
契約更改に印鑑を忘れ、その後の予定が詰まっていたため、自宅まで球団職員に来てもらい、掘りごたつ(たぶん、豆炭)の上で統一契約書にサインしたという呑気な話もあった。おそらく自宅での契約更改は史上唯一だろう。
呑気と言えば、セの優勝監督、
阪神の藤本定義監督が、リューマチの治療で入院した際、リューマチは治らなかったが、トレードマークだった右こめかみ近くのホクロを取ったという話もあった。
藤本監督は「男前になっただろ」と上機嫌もカメラマンは、いままでの写真が使えなくなったと嘆いていたとか。
連載している藤本監督の手記では、終戦直後、賭け屋との戦いが載っている。
1946年パシフィック監督時代の話だが、賭け屋とつながり八百長をしていた選手がかなりいて、それを次々クビにしていた。
そのうち賭け屋の親分がピストルを持った子分らを連れ、自宅に乗り込み、「あいつをクビにするな」と脅迫されたこともあったらしい。
藤本監督は、すべては選手の待遇の悪さ、つまりは貧困からくると考えた。待遇改善をしない限り、賭け屋の誘惑から逃れることはできないと自ら選手会の結成を提案し、初代会長となっている。
つまり最初の選手会会長は現役選手ではなかったのだ。
中日監督を退任した
濃人貴実は、契約が1年残っていたため二軍監督にと勧められたが、断った。
濃人解任の理由は「郷土色に乏しく、スターじゃないから、不人気で新聞の売れ行きに影響が出るからだった」とウワサされていた。
落合博満監督が解任され、
高木守道監督となったときと似た話だ。
OBの
杉浦清監督、スター選手だった
西沢道夫のコーチ復帰で人気復活をということだ。ただし、西沢は名古屋出身ではないが。
巨人は
高林恒夫と
宮本敏雄を国鉄に放出。宮本は61年日本シリーズのMVP、2年目を終えたばかりの高林は、1年目の61年から外野のレギュラーになった男だが、2年目の61年は打撃の非力さもあって出番が減っていた。
交換で巨人が獲得したのが、投手の
北川芳男だった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM