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週刊ベースボール60周年記念企画

投手育成名人の阪神・藤本定義監督/週べ1963年1月14日号【251】

 

 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。

盗塁王の表彰はなかった?


表紙は国鉄・豊田泰光



 今回は『1963年1月14日号』。定価は40円だ。
 阪神への金銭での移籍が“内定”していた巨人の捕手・藤尾茂だが、タイガース側から断られてしまった。

 はっきりした理由は分からないが、10年選手の小山正明らがゴネて年俸全体が高騰し、金面の不安があった、また藤尾の肩が壊れているというウワサが阪神側の耳に入ったからでは、と書かれている。

 その阪神・藤本定義監督は巨人監督時代から投手育成名人と言われた。62年優勝は村山実、小山正明を軸に日本球界で初めて先発ローテを確立させた結果でもあった、という。

 ただ、以前も書いたが、これは優勝したからこそ、この2人がいたからこそ、そういわれたともいえる。

 藤本監督はローテというより、選手の個性にこだわった指揮官だったような気がする。

 数字を見ても、まず村山だが、前年比で61年が48試合登板で先発31、62年は57試合で先発38で73回3分1多く投げている。
 ここぞの場面では連投もあったが、意気に感じる村山の性格を把握しながらの起用だったと思う。

 一方の小山の起用は確かに「中3日」を意識していた。数字的には61年が46試合で先発37、62年が47試合で先発40試合で61回3分の1多く投げているが、これは完投が18から26に増えていることもある。要は職人肌の小山に関しては、「投げるならその試合を任せ、完投させる」という考え方だったのだろう。

 ただ、完封が4試合から13試合に増え、この年の小山の安定感は抜群だった。代える必要がない試合が多かった、ともいえる。途中降板が多かったら中3日など言っていられなかったはずだ。

 ちなみに2人とも翌年は登板数が激減。酷使は間違いなかった。

 藤本が投手から慕われたのは、世話好きに加え、言い方は悪いが、“人たらし”だったからではないか、と思う。

 佐々木信也との連載でその片鱗がうかがえる個所があった。

佐々木 投手交代のとき、自分でマウンドに行き、ノックアウトされたピッチャーの背中をたたきながら帰ってこられる場合がありますね。
藤本 まだ引っ込みたくないときがあるんです。自分からマウンドを降りるのが照れくさいとか残念だとか、いろいろなものが交錯してますよね。だからそこで君がもう一遍打たれたら、次にピッチャーはリリーフするチャンスを失うんだ。いまお前が無理してダメだったら、あとのピッチャーが全部使えなくなる。だからここで代われ、と。それは一例だけど、冗談交じりにそういうことを言っていれば、本人もマウンドを降りるときの気休めができて、いさぎよく降りられるわけです。だから、僕は気持ちよく降りられるテクニックをしているんです。
佐々木 なるほど。ピッチャーによっても違うでしょうし。
藤本 性格によっても違います。

 のちの話だが、さすが江夏豊が慕った監督でもある。

 チョロとも言われた南海・広瀬叔功は1962年50盗塁で2年連続盗塁王となったが、実は当時の盗塁王は表彰がなかった。
 広瀬は、「だったら日本記録、いや世界ナンバーワン記録を作って、何かを残したろうと思うんや」と語っていた。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM
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