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球界デキゴトロジー/7月15日

王貞治の美学を松中信彦が具現化した日(2005年7月15日)

 

2004,05年の松中は無双だった


 西武時代の松坂大輔(現中日)は、抑えっぷりもいいが、打たれっぷりもいい投手だった。

 ここぞという場面では「打てるものなら打ってみろ!」とばかり剛速球を投げる。

 もちろん、抑え込むことのほうが多かったが、手痛い目に一発を浴びることもあった。
 ただ、そんなときでも、ことさら悔しがったり、照れて舌を出したりはしない。ただ、仏頂面になるだけだ。
「やるか、やられるか」の修羅場に動ぜぬタイプだった。

 近鉄・中村紀洋をはじめ、当時のパには松坂との対決に異様に燃える男たちが多かった。

 おそらく、当時の松坂を見て、「俺が現役だったら……」とひそかに思っていたのが、ダイエー、ソフトバンク王貞治監督ではないか。

 巨人での現役時代、王監督は、こんなことを言っていた。
「俺は変化球で空振りさせられてもちっとも悔しくない。そういうボールなんだから。でもストレートで空振りさせられるショックは大きいね」
 相手投手の一番速い球をホームランする、それが世界の王の美学だった。
 当時、確かに変化球でかわされて打ち取られても、クビはひねるが、悔しそうな顔はしなかった。
 
 巨人監督時代は、勝利を優先したのか、原辰徳ら主力選手がある程度、完成期にあったからかは分からないが、同様の美学を選手たちに求めたようには思わなかった。
 それがダイエー監督となって、一気に表に出る。

 高々としたフェンスが邪魔をし、ホームランが出にくいと言われた福岡ドーム。小久保裕紀松中信彦ら、かつての自分のように飛ばすことに魅了された若者が、この球場を“攻略”しようと必死にもがいていた……。
 王監督の血をわき立たせる材料は、多かっただろう。

 王監督は、小久保や松中に「ストレートは1球で仕留めろ」と言い続けたという。エースと主軸の戦いはそうあるべきと思っていたのだろう。

 松中が、ある程度、王監督の美学を実践できるようになったのは、06年に下半身を故障する前、2004年、05年あたりだったという。「変化球待ちでもストレートを打てた」と振り返る時期だ。

 前置きが長くなった。
 05年、7月15日の西武戦(ヤフードーム)は、前年04年の三冠王・松中全盛期の象徴的な試合と言っていい。

 この日、松中は、西武のエース・松坂から3本のホームランを放った。
 2回裏の1本目は146キロ、4回裏の2本目は150キロ、9回裏の3本目は149キロ。いずれも松坂の渾身の1球を叩いたものだ。
しかも、3本とも冠つき。「先制30号ソロ」「逆転31号2ラン」、そして「32号サヨナラ弾」だ。

 さすがの王監督も「すごいねえ。松坂から3本は見事だった」と大絶賛。松中は「全打席、ストレートを1球で仕留めるつもりだった。(松坂)大輔は僕の中で特別な存在。自信になります」と胸を張った。

 勝手に思っているのだが、王監督が自身のイズムをホークスの若手選手に積極的に伝えた要因の一つに、巨人・長嶋茂雄監督の下に、松井秀喜が入団したこともあるのではないか。

 プロ野球の楽しみの一つに、そんな歴史の継承の、多少妄想の入ったドラマがある。
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