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甲子園ヒーロー列伝

PL学園高・清原和博、甲子園に愛された怪物打者(甲子園ヒーロー列伝/03)

 

甲子園通算13本塁打


 100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも、本大会開幕まで、甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。

「甲子園は清原のためにあるのか!」
 1985年夏、甲子園決勝の宇部商戦(山口)だった。右中間スタンドに2打席連続本塁打を叩き込んだPL学園高の四番・清原和博
 その姿を見ながら実況した朝日放送のアナウンサー・植草貞夫氏のあまりに有名な言葉だ。

 西武黄金時代では1年目途中から四番に君臨、巨人では番長とも呼ばれ、印象的な活躍を残している大打者だが、それでもなお、「高校時代が一番輝いていた」と振り返る野球ファンはいまなお多い。

 大阪・岸和田出身。少年時代から同年代の中では頭一つ大きかった。高校は天理高かどちらかと迷いながらPL学園高に入る。

 当初は投手。6月に入って中村順司監督に言われ、野手に回ったが、「四番エース」にあこがれていた清原は、打撃投手を買って出ては「投手復帰」をアピールしていたという。

 5月に沖縄・興南と練習試合をした際、ほかの先輩選手が手も足も出なかった左腕・仲田幸司から放った二塁打のインパクトもあり、1年生ながら四番に抜てきされた。
 同級生の投手・桑田真澄も背番号11ながら主戦投手となり、2人の活躍もあってPLはあれよあれよという間に甲子園出場決定、さらには全国制覇を飾った。
 以後、2人は「KKコンビ」と呼ばれ、一世を風びすることになる。

 ただ、大阪大会では打ちまくっていた清原は、神経性の下痢にも苦しみ、甲子園では打撃不振。決勝で横浜商高(神奈川)の三浦将明から甲子園第1号を放っているが、当時は桑田のほうが上に見られ、KKは「桑田、清原」の順だった。

 2年生でも当然のように春夏連続甲子園出場を果たして優勝候補と言われたが、センバツは岩倉高(東京)、夏は取手二高(茨城)にいずれも決勝で敗れた。さらに3年センバツでは準決勝で伊野商高(高知)に敗退。相手エース、渡辺智男に3三振と完全に抑え込まれた。しかも、それまで記憶にない「力負け」だったという。
 
 そこから最後の夏に向け、死にもの狂いの練習を続けた。
 
 迎えた夏の甲子園、清原の成績はすさまじい。5試合で16打数10安打、打率.625。特に準々決勝以降の3試合は10打数8安打だ。当時の大会記録5本のホームランも、この3試合で固め打ちしたものだった。

 準々決勝では自身、「高校時代のベスト1」と振り返る一発もあった。高知商高・中山裕章から放った推定140メートルの特大の一発だ。そして決勝の宇部商高戦では2打席連続弾。優勝を決めたのは、松山秀明のサヨナラ打だったが、ネクストにいた清原が金属バットを高々と突き上げると、ナインはみなその周囲に集まった。

 甲子園では春夏通算13本塁打。その名前は、甲子園が続く限り、語り継がれていくはずだ。
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