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編集部員コラム「Every Day BASEBALL」

エポックメーキングだった74年夏。初の金属バット、定岡フィーバー、原の初陣、最強銚子商……面白かった

 

投攻守、すべてに超高校級のチーム


74年夏の甲子園の主役は銚子商高。エースは土屋正勝だった


 初めて甲子園の高校野球を取材したのは1974年の夏の大会だったが、いま思い返すと、いろいろな意味でエポックメーキングな大会だった。

 まず、この大会から金属バットの使用が可能になった。あの巨大なスタンドの記者席で金属バットの音を聞くと、悪感が走ったものだ。「ガキューン」「バキューン」「キューン」と、カタカナでさまざま表現してみても、あの気持ち悪い音の再現は難しい。現代の高校野球ファンは慣れっこだろうが、木製バットの音しか知らない身には、「これが野球の音か?」と、大会中、この音に慣れることができなかった。

 ただし、1試合だけ、この音を忘れてしまった試合があった。それは、準々決勝の鹿児島実高と東海大相模高の大熱戦である。鹿実にはあの定岡正二投手、相模には1年生の原辰徳三塁手がいた。この戦い、相模は完全なカタキ役だった。なぜかと言うと、定岡の人気が1試合ごとに爆発して69年の三沢高・太田幸司投手のような感じになっていたからだ。

 対佼成学園高1対0、対高岡商高1対0、定岡は1点も与えなかった。一方、相模は、原の父、貢監督は、夏の大会2度制覇の名監督。“父子鷹”で有名ではあったが、スタンドは「定岡サ〜ン、親子チームになんか負けないで」と鹿実びいきが圧倒的に多かった。

 試合は追いつ追われつのシーソーゲーム。結局、延長15回、5対4で鹿実が勝った。定岡フィーバーは頂点に達した。相模は、2回戦で土浦日大高に延長16回を制しているのだが(3対2、土浦には工藤一彦投手がいた)、こちらのほうは忘れられ、この大会の延長戦といえば、鹿実−相模戦ばかりが思い出される。

 しかし、この大会の大主役は銚子商だった。土屋正勝投手を中心に、投攻守、すべてに超高校級のチーム。前年の夏に、あの江川卓投手のいる作新学院高を破っている自信は大きかった。土屋投手は5試合投げて取られたのは2点。これは押し出しで、タイムリーは1本も打たれなかった。筆者はその後、センバツも含め20回近く甲子園を取材しているが、知る限りでは、この年の銚子商が最強だったと思う。

 このチームに1人だけ、バットの音が違う打者がいた。2年生の三塁手の篠塚利夫(のち和典)だ。篠塚は木製バットで2本塁打、彼には金属バットは邪道だったのかも。

 篠塚のような職人タイプの好打者がもう1人いた。福岡第一高の角富士夫投手。外角の難しいボールを鮮やかにとらえると打球は右越えホームランに。「高校生でも、こんな技術を持った選手がいるのか!」と驚嘆した。角も木製バットではなかったか。ちなみにここまで登場の選手たちは、プロに進んでも一流選手となった。土屋投手の挫折が残念だった。

 金属バット、定岡フィーバー、原の初陣、銚子商高が真紅の大旗を初めて千葉にもたらした……やはりエポックメーキングな大会だった。

 阪神の甲子園駅から高速道路の高架までの間に、飲食店やおみやげ屋が軒を連ねていたが、その中の「清水」で「別玉」の味を覚えたのも懐かしい。ある新聞記者が、若おかみの清水栄子さんに「玉子落とし牛めしもエエけど、スキヤキみたいに、具とメシを別々にでけんかいナ」と言ったのがキッカケで、玉子でとじたスキヤキと白いご飯が別々の二段弁当が誕生した。その「清水」はいまはない。

文=岡江昇三郎 写真=BBM
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