週刊ベースボールONLINE

甲子園ヒーロー列伝

早実・荒木大輔、社会現象となったアイドル(甲子園ヒーロー列伝/10)

 

マウンドではほとんど表情を変えなかった


 100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも、本大会開幕まで、甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。

 1980年夏、東東京代表・早実の1年生エースとして彗星のように甲子園に現れたのが、荒木大輔だった。

 アイドル歌手のような甘いマスクと渾身のピッチング。瞬く間に全国区の人気者となり、社会現象ともいえる「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした。

 当時、野球ファンの両親が息子に「大輔」とつけることも多く、その一人が松坂大輔(横浜高。現中日)だった。

 リトルリーグ時代は世界に名を轟かせた右腕だったが、この夏の東東京大会直前まで、1年生の荒木は早実三番目の投手にすぎなかった。

 それがエースのケガもあって徐々に出番が増え、野球の神様の作為があったかのように、甲子園初戦の先発マウンドに導かれていく。

 その試合、北陽戦(大阪)の1安打完封で、荒木の運命が変わった。
 街を歩いても誰も振り向かない普通の高校生から、宿舎まで大勢のマスコミ、大勢のファンが詰めかけ、球場では黄色い声援が飛び、一人で宿舎を出ることもできなくなったという。

 ルックスだけではなかった。実力も超高校級だ。
 初戦からの無失点は決勝の横浜戦(神奈川)まで続く。

 横浜のエースは愛甲猛(のちロッテほか)だ。彼もまた、1年夏に主戦投手となり、アイドルとなった男だったが、16歳と18歳の差は大きい。。
 のち荒木は「横浜の選手は怖かったですね」と冗談めかして話しているが、要は、かなり迫力ある顔になっていた。

 力もあった。荒木の44回3分の1無失点の記録は初回で終わる。
 それまでまったく記録を気にしなかったという荒木だが、このときはじめて動揺した。このままでは負けると初めて実感したのだ。
 無我夢中から一転、勝負の怖さを知り、試合も敗れた。

 負けたことで判官ひいきの人気がさらに高まったが、荒木は野球以外での注目が嫌でたまらなかったという。

 自分が騒がれるだけならいいが、一緒に頑張った仲間たち、とくに先輩たちに申し訳ないと思ったのだ。
 救ってくれたのは、仲間だ。

「仲間、チームメートの僕に対する扱いが変わらなかった。守るところは守ってくれたし、絶対に孤独になるということがなかったです。これは戻ってからの話ですが、例えば電車に乗ると、同級生が僕の周りを囲んでくれて守ってくれました。僕が乗る時間に合わせて、みんなが動いてくれていたんですよね。学校からグラウンドに行くときも同様です」

 どんなに騒がれても荒木は“天狗”にならず、またなれなかった。
 それはもともとの目立つことを嫌う性格に加え、冷静な観察眼ゆえでもある。
「甲子園でいろいろな選手のプレーを見ていれば分かりますよ。例えば池田の畠山(準。南海ほか)。ボールは速いし、スライダーも抜群に切れていた。甲子園じゃないけど、斎藤(雅樹。川口─巨人)もそう。練習試合で対戦したことがあったんですが、真っすぐは速いし、こういうヤツがプロに行くんだろうなと思ってました。
 
 ただ、総合力というか、いろいろなものを含めて投手としてのトータルとして考えれば、勝てるかもしれない、とも思っていましたけどね」
 
 
 荒木は、そのまま5季連続出場を果たすが、最後の最後で野球の神様は試練を与えた。

 準々決勝、池田戦(徳島)だ。

「あれだけ打たれたこともなかった。技術だけでは勝てないということをすごく思い知らされ、中盤以降は本当に試合内容を覚えていません。思っていたことは『なんで甲子園にはコールドゲームがないんだろう』。力の差がはっきりしているのに最後までプレーしなくてはいけないのが、本当につらかったですね。僕は1回、ライトに回って、8回に再びマウンドに上がったんですけど、もう勝つという気力がなくなるほどダメージがありました」

 2対14と大敗した。

 終わった瞬間は「やっと終わってくれたとホッとした」という。

 甲子園についてのこんな感想も荒木らしいかもしれない。

「当時の僕にとって、いろいろなプレッシャーから逃れることができたのは試合だけだったんですよね。僕にとって甲子園球場は、誰にも邪魔をされずに、チームメートと大好きな野球を思う存分プレーできる場所だったんですよ」
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング