いよいよ100回目の夏の甲子園が始まる。『週刊ベースボール』では、オンライン用に戦後の夏の甲子園大会に限定し、歴代の名勝負を紹介していきたい。 延長戦で6点差を追いついて……
驚異の粘りを見せた報徳学園は延長12回裏、一死満塁から貴田が右前打してサヨナラ勝ち
1961年8月13日
第43回=1回戦
報徳学園(兵庫)7X−6倉敷工(岡山)
※延長12回
0対0で延長戦となった試合は11回にドラマが隠されていた。
“どん帳”を上げたのは倉敷工。四球など無安打による一死満塁のあと、松本芳男の左翼二塁打で2点を先制すると、報徳学園のエース・酒井癸三夫をKOして一挙6点を奪った。誰もが「勝負あり」と思ったが……。
しかし、その裏、報徳学園は、先頭に背番号13の3年生・平塚正を代打に送る。ベンチ入り14人(当時)のうち、試合に出ていなかった最後の選手だ。
沢井則男監督の“温情起用”とも見て取れた。だが、この起用が“奇跡への扉”を開く。ボテボテの三塁内野安打で出塁すると、一死一、二塁からの左前打で1点目のホームを踏んだ。
そのあと4点差となったものの二死となり走者三塁の場面で、今度は倉敷工・小沢馨監督が動く。先発で好投していた2年生・永山勝利から大会前に負傷した3年生のエース・森脇敏正への交代。この起用にも「あとアウト一つ、森脇を投げさせてやりたい……」という小沢監督の“情”が感じられる。
森脇は四球、三遊間安打で差は3点に。再び永山がマウンドに上がったが止められない。報徳学園は1点差に詰め寄り一、二塁。この回、2度目の打席に入った平塚が中前打を放ち、返球を捕手・
槌田誠(のち
巨人)が落球して、ついに同点に追いつく。
こうなると流れは報徳学園へ。12回表に倉敷工が槌田の二塁打を生かせなかったその裏、一死満塁から貴田能典が右前にサヨナラ打を放って大逆転劇は完結した。
試合後、両監督はそろって選手たちへ感謝の言葉を口にした。
「いい思い出を子どもたちが作ってくれました」と沢井監督が言えば、小沢監督もさわやかに「負け惜しみじゃなく“監督冥利に尽きる試合”でした」と話した。
写真=BBM