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甲子園ヒーロー列伝

沖縄水産・上原晃、2度のサヨナラ負けを喫した“悲運のヒーロー”(甲子園ヒーロー列伝18)

 

ツーシームも投げていたという


 100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。

 今回は、最速145キロの快速球を武器に、沖縄の星と言われ、4度甲子園の土を踏んだ沖縄水産・上原晃だ。甘いマスクで女性ファンの人気も高かった男だ。

 初めて甲子園の土を踏んだのは、3年生のKKが活躍し、PL学園高が頂点に立った1985年夏だ。1年生の夏の上原は、3回戦の鹿児島商工(鹿児島)戦にリリーフで大会2度目のマウンドに上がるも、暴投でサヨナラ負けという1年生には酷な負け方をしている。

 2度目は翌86年春、上宮(大阪)に1対3で1回戦敗退。
 そして3回目の出場が86年夏だった。
 今度は2回戦の帯広三条(北海道)戦を1失点(12対1)、3回戦の京都商(京都)戦は完封(14対0)。強打もあって、ようやく前年夏の悲運のイメージを払しょくしたかに思えたが、迎えた準々決勝、9回またも松山商(愛媛)に9回サヨナラ負け(3対4)。

 最後の出場は87年夏。大会前、「甲子園で150キロを出したら有名になるかな。いや出してみたいです」と笑顔で話していたが、1回戦の函館有斗(北海道)は12三振を奪ったもののピリッとせず、「100点満点の1点です」と本人も不満顔。3対2の辛勝だった。
 続く2回戦の常総学院(茨城)は立ち上がり崩れ、初回4失点、そのまま0対7の完敗で終わった。

「野球は難しい。一人相撲を取ってしまった。いろいろ勉強になりました」

 のちのインタビューで、当時の球種はストレートとツーシームだけだった、という話を聞いた。
「栽(弘義)先生(監督)に教えてもらった球で、僕らは“ボウズ”と言っていました。厳密にはツーシームと違うのですが、握りだけ縫い目からずらしてストレートと同じように投げて、最後に少しだけ曲げたいほうに滑らす。ツルツルのところに指をかけるからボウズです(笑)」

 ただ、覚えはしたが、ほとんど使わなかったという。変化が分からず、暴投になることが多かったのと、「当時は、もっと速い球を投げたいしかなかったですから」。

 確かに、あの夏の上原の球は速かった。
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