高校時代の中西と、西鉄監督の三原脩
100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。
西鉄ライオンズ黄金時代の象徴とも言える大打者、
中西太。内野手が前進するような低いライナーがそのまま場外ホームランになったという伝説もある。
その異名、「怪童」が生まれたのが、甲子園だった。
中西が初めて甲子園球場に姿を現したのは、1949年(昭和24年)春、第21回選抜大会だ。
実は、そのとき中西は、まだ入学式も終わっていない1年生。中西本人も、いいのか悪いのかも分からないまま出場したというが、1回戦で小倉(福岡)に完封負けしたこともあってか、特に話題にはならなかった。
夏も出場。高松一は準々決勝で優勝候補の芦屋(兵庫)と対戦。芦屋のエース、有本義明は、中西の自分の右肩あたりを過ぎた打球がセンターまで地面に着かずライナーとなったのを見てビビってしまい、その後の2打席は四球だったという。
この試合に5対0で勝利した高松一だったが、次の準決勝で湘南(神奈川)に延長戦で敗れた。
2年生はあとわずかで甲子園には届かず、主将で挑んだ最後、3年は夏に四番サードで出場(2年時は捕手)。香川大会、北四国大会を中西の猛打もあって制し、甲子園出場を決めた。
1回戦はのち大洋の日本一バッテリー、
秋山登、
土井淳のバッテリーを擁する岡山東戦。高松一は、中西の強打に腰が引け、四球連発の秋山を攻略し、12対3で大勝した。
中西はこの試合の7回に大会第1号本塁打を記録。左中間を深々と破ったランニングホームランだ。俊足もまた、高松一時代の大きな武器だった。
2回戦の福島商戦では、栄養剤代わりのブドウ糖注射のせいで高熱を発した。それでも志願して出場すると、またもランニングホームランを放っている。
準々決勝の相手は、前年も当たった芦屋。有本は卒業し、今度は
植村義信がエースだった。この試合で中西が放ったセカンドライナーを受けた二塁手があまりの打球の速さにひっくり返ってしまう逸話も残る。
再び芦屋を破った高松一は、準決勝で平安(京都)に敗れたが、いつしか中西は「怪童」と呼ばれるようになっていた。