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中日─巨人戦に150人の警官隊/週べ1963年9月9日増大号

 

 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。

三冠王に近づく長嶋茂雄


表紙は巨人長嶋茂雄。背後はボール。SFチックだ


 今回は『1963年9月9日増大号』。10円上がって定価は50円だ。

 巨人・長嶋茂雄が三冠王に向け、快進撃をしている。8月25日時点(140試合中109試合終了)で打率.346、33本塁打、98打点。打率、打点は独走状態で、本塁打のみ同僚・王貞治と並び、トップタイだ。

 長嶋自身は「三冠王は、日本で初めてのことだし、正直言って狙いたいところです。しかしまだ確実にいただきとは言えない」と慎重。なお、戦前1938年秋の中島治康の三冠王は、当時参考記録扱いだった。

 南海・野村克也が65年に三冠王に近づいた際、過去の記録を検証し直して「初代三冠王」と決めたものだ。

 初代を他チームにさせたくなかったから、という巨人のセコさに言及する説もあるが、日本の野球の源流ともいえる大学野球が春秋で別扱いにしているから、別に巨人びいきというわけでもない。

 ちなみにこの38年、中島は春秋連続首位打者。ただ、春は本塁打王がイーグルスのハリス、打点王がタイガースの景浦将だった。

 独走状態だった巨人に中日が迫り、8月24日、セの天王山と言われた中日─巨人3連戦(中日球場)は、連日超満員となった。

 当時、中日ファンは少々品がなく、客席からのモノの投げ入れが問題となっていた。それも石や瓶を選手めがけて投げるのだからたちが悪い。当たり所が悪ければ、選手生命にもかかわる。

 巨人・川上哲治監督は「犯人が捕まるまで中日球場での試合はしない」とも言っていた。

 しかも、このときは事前に中日新聞社に「巨人は審判と組んで横暴なことをやっている(村山事件もある)。俺はダイナマイトの爆弾を十六発持っている。手始めにいまをときめく長嶋、王をやっつけてやるからそう思え」という投書が届いていたというから穏やかではない。

 150人の警官隊の警備もあって何とか無事に終わったが、巨人の宿舎の隣にあった小料理屋が放火に遭い、これも巨人への嫌がらせではと言われた。

 グラウンドの結果は1勝1敗1分だった。
 
 東映と神宮のトラブルの話もあった。東映は神宮球場をメーンで使用していたのだが、8月26日が最後になった。
 と言っても、あとは9月10日と11日の2試合だけだったのだが、それが急きょ東京スタジアム開催に変更になったのだ。

 神宮球場関係者は「あくまで会社の都合です」と話していたが、おそらくは優勝から遠ざかり、観客もまばらとなる中で、東映が使用料がより安い東京球場に代えた、ということではないか。

 夏の甲子園で全国制覇を果たした明星高の真田重蔵監督辞任の話もあった。

 真田監督は、松竹時代の50年、39勝を挙げた大投手だが、プロ経験者というのが嫌がられたのか、優勝チームの監督が務めるのが恒例となっていた大会後の代表チームの監督に指名されなかった(この年はハワイ遠征)。

 真田監督は「それとは関係ない。同じチームが長い間指導しているとマンネリになるから」と話してはいた。

 当時はドラフト制度誕生前、プロの強引なスカウティングに対し高野連が怒り、完全に敵対関係となっていた。このハワイ遠征メンバーもプロと接触があった選手はすべて排除したという。

 高野連の理屈は分かるが、さまざまな出来事に対し、問答無用でペナルティを課すというのは、軍隊的で好きになれない。

 真田監督がこぼしたという言葉も痛々しい。

「アマに復帰して6年、アマ精神を通じて高校野球発展のために純粋な気持ちで努力してきたつもりだ。それがいつまでも認められないことには耐えられない。元プロ野球選手というだけで、どうしてそれほどまでに他人扱いを受けねばならないのだろう」

 では、また月曜日に。

<次回に続く>
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