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パンチ佐藤の漢の背中!

亜大野球部、「10.19」の思い出 元ロッテ・古川慎一/パンチ佐藤の漢の背中「01」

 

『ベースボールマガジン』で連載しているプロ野球選手の第2の人生応援プロジェクト「パンチ佐藤の漢の背中」。「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回はパンチさんの亜大時代の1年先輩で現在は会社員の古川慎一さんとの「ブリキ軍団同窓トーク」をお届けします。

一番きつかった冬の早朝ランニング


パンチ佐藤(左)、古川慎一氏


 もともとは「普通に高校へ行って、大学に進み、サラリーマンになる人生を描いていた」と言う古川さん。中学の野球仲間に「春日部工で一緒にやらないか」と誘われ、強豪校に入学し、運命が動き始めた。

 甲子園こそ行けなかったが、プロ10球団、大学4校から誘いを受けた。父の「大学だけは出ておけ」という助言に従い、選んだ大学が亜細亜大。1年後、寮の同部屋になった1年生が、『武相高・佐藤和弘』――パンチ佐藤さんだった。

パンチ 先輩は亜細亜に入って、まず驚いたことはなんですか。

古川 お前が思ってるのと一緒だよ(笑)。

パンチ 練習がきつかった?

古川 練習がきついのは当然なんだけど、やっぱりタテの関係だよね。高校までお山の大将でやってきて、大学に入ったとたん、あのしきたり。まあ、ちょっとビックリしたね。

パンチ いつぐらいから大学で「自分はやれる」と思いましたか?

古川 1年のとき、ジュニア選抜でアメリカに行ったんだよ。そのとき「あ、やっていけるかな」と思った。

パンチ それで、2年生から四番。

古川 で、3年のとき日米大学野球と、ロス五輪に行かせてもらったの。

パンチ 僕はあのとき、古川さんに五輪のブレザーを着させてもらいましたよ。ロスはどうでしたか?

古川 当時はアマチュアだけだったけど、そうそうたるメンバーだったよね。あのときの社会人野球の人たちは「すげえな」って思ったね。

パンチ しかも金メダルですもんね。そのときのアルバム写真とか……。
古川 もう、財産。棺桶に入れてほしい写真だよ。

パンチ だから大学って、学歴じゃないんですよね。この、大学生活がいいんですよね。

古川 うん、大学に行ってもまれて、いろいろな経験をして良かった。

パンチ まあ、厳しかったですけどね(笑)。だけど古川さんは、もともと体力ありましたよね。

古川 それでもきつかったよ。一番きつかったのは、冬の早朝ランニング。あれは嫌だった。

パンチ 朝の5時半とか6時から、いきなり走り出すんですよね。で、大汗をかくんだけど、寒いから後半になると、襟足が凍ってくる(笑)。大学時代、一番楽しかった思い出はなんですか?

古川 楽しかったのは、3年生になったとき(笑)。「俺ら、いつ上級生になれるんだ?」って思いながら、毎日毎日つらい練習をやってきて、やっと3年生になってね。内田(俊雄監督=当時)さんに呼ばれて、「解禁」って。

渾身の“亜細亜スチール”を大学選手権決勝戦で敢行!!


亜大時代の古川さん。3年春にリーグ優勝から大学野球選手権優勝、夏のロサンゼルス五輪日本代表メンバーにも選ばれた


パンチ 酒、たばこOK、と。僕は古川さんといえば、やはり古川さん3年生、僕が2年生の大学選手権。法政との決勝ですね。あのとき、1試合もしないうちから、決勝の法政戦に向けて練習していたじゃないですか。

古川 伝説の亜細亜スチールね(笑)。

パンチ 亜細亜はスター選手、金の卵のいない『ブリキ軍団』。ブリキは金とは違って1日でも磨かないと錆びてしまう。そしてブリキは薄っぺらいから何回も刺したり切ったりできないから、とがらせて、とがらせて、いざというとき一刺しできるようにしておけ、と。

古川 それがランナー一、三塁になったときの練習だもんね(笑)。

パンチ 一、三塁になったとき、一塁ランナーがコケる。そこでピッチャーが……法政なら西川(佳明=のち南海)さんがけん制を投げたら、三塁ランナーがホームに走って、点を取る。あるいはキャッチャーの秦(真司=のちヤクルト)さんが肩に自信があるから、一塁に投げるかもしれない。そこで突っ込む、という2パターンを、朝から晩まで練習しましたね。

古川 あんな場面、4年間やってあるかないか、なのにね(笑)。

パンチ 左ピッチャーを打つ練習とか守備の練習じゃなく、コケる練習ですからね(笑)。で、どんどん勝ち進んで、本当に法政との決勝になったんですけど、左だからって僕、決勝だけベンチだったんです。

古川 2対3で1点ビハインドのまま、9回表まで来ちゃったんだよね。

パンチ それでなんと、本当に二死一、三塁になっちゃった。

古川 俺、三塁ランナーだよ(笑)。

パンチ みんなベンチで、「おいおい、こんなことあるのよ」って言ってたら、矢野(祐弘)総監督がスタンドの上段からダーッと下りてきて、ネット越しに「ウチ、ここぞ、ここぞーーーーっ?」(笑)。すると内田監督が、「言われんでも分かっとるわい!」。みんな、「出た、あのサインが!!」(笑)。

古川 鳥肌が立ったね。俺が一番緊張したんじゃない? あれでミスったら、全部パアになっちゃうから。

パンチ ピッチャー西川さん投げる、秦さん捕る、一塁ランナーコケる、古川さん走る、ザザーッとホームに滑り込んで、同点!!

古川 法政の連中、ハトが豆鉄砲食らったような顔してたね(笑)。

パンチ あの瞬間、法政の選手もベンチもスタンドも、みんな固まってましたね。あのとき俺、ベンチから一番に飛んで出ていきました。

古川 結局、延長10回にサヨナラホームラン打たれて負けたんだよね。

パンチ でも一番の思い出ですよ。

亜大OB3人が絡んでいた『10・19』


古川(法大の)島田(茂)さんがロッテに来たとき、「何、あれ?」って言われたもん。「ビックリするわ」って(笑)。

パンチ ブリキ軍団が、スター軍団をみんなでチクチクやったってことですよ。ロッテでは、開幕一軍スタートですか?

古川 いや、二軍スタート。

パンチ キャンプ、オープン戦は一軍に帯同しなかったんですか。

古川 帯同して、それなりに打った記憶もあるんだけど、一軍に入れなかった。でも4月の1カ月でホームラン5、6本打ったんだよ。「東都のほうが、レベルが高いな」と思ったくらいだった。

パンチ 早く上げてくれよって思ったでしょう。

古川 うん、5月の中旬くらいに上がって、普通ならすぐには使ってくれないじゃない。でも稲尾(和久=監督)さんが「調子がいいから上がってきたんだろう? そういう選手を使わない手はない」と言って、すぐ使ってくれた。

パンチ デビュー戦のことは覚えていますか?

古川 川崎の日本ハム戦でね。「七番・レフト」で先発して、1打席目に三振。2打席目はピッチャーゴロ。

パンチ 緊張しました?

古川 うん。で、その2打席で代えられて落とされると思ったら、稲尾さんが最後まで使ってくれて、3打席目に岡部(憲章)さんからレフト前にプロ初安打を打った。次の日また先発で使ってもらって、津野(浩)から初ホームランを打ったんだ。

パンチ 稲尾さんは大きい人ですね。

古川 これがプロの監督なんだなって思ったね。コーチに任せるところは任せて、何も言わないんだ。

パンチ 先輩の2年目に落合(博満)さんがいなくなって、後継者として開幕四番を打ったじゃないですか。あのときは、どんな気持ちでしたか。

古川 前年秋のキャンプで(新監督の)有藤(通世)さんに言われていたんだけど、やっぱり落合さんと比較されるでしょう。年俸1億何千万のバッターと、四百何十万のバッターとって(笑)。いつも「どんな気持ちですか?」って聞かれていたけど、「僕は僕。僕なりの野球をするだけですよ」と答えていた。ただ、有藤さんもホームランをバカバカ打つバッターを期待していたわけじゃないと思うんだ。走れて、機動力を使ってつなぐ。そういう野球を、有藤さんは徹底したかったんだと思う。だけど4月の終わり、阪急戦で2打席連続デッドボールを食らって、手首を骨折して2カ月休んじゃった。だから、四番を打ってた時期はそんなに長くないんだよ。

パンチ 古川さん、確か東尾(修=西武)さんと相性良かったですよね。

古川 うん、4割くらい打ってた。

パンチ 一度「なんであのスライダーを打てるんですか?」って聞いたら、「真ん中に来たスライダーを打てばいいんだよ」って(笑)。

古川(笑)。

パンチ 大学のときは、真っすぐは強かったけど変化球は弱かったようなイメージが……。

古川 駒澤の鍋島(博)のスライダーは、全然打てなかったねえ。

パンチ そしてこれもまたよく聞かれると思いますが、古川さんといえば、あの10・19のダブルヘッダー第2試合で、例の有藤監督が猛抗議したときの二塁ランナー。しかも、セカンドが大石(大二郎)さん、けん制球を投げたピッチャーが阿波野(秀幸)。亜細亜3人で何やってるんだっていう(笑)。

古川 秋になると、今もまだ取材が来るんだよ。阿波野のけん制球が高くて、大石さんがジャンプして捕って、降りてきたところに僕がいて押されたような感じだったから、審判に「押した、押した」ってアピールした。だから足が離れた自覚はあったし、審判がアウトって言うんだから、アウトなんだろうと。有藤さんもそこまで抗議するつもりはなかったと思うんだけど、仰木(彬、近鉄監督)さんが「はよ引っ込め」とかいらんこと言っちゃったんだよ。それに有藤さんがカチンときて、長くなっちゃった。

<「2」へ続く>

●古川慎一(ふるかわ・しんいち)
1963年7月25日、東京都出身。春日部工高から進学した亜大では3年時にロサンゼルス五輪日本代表の一員として金メダル獲得に貢献するなど、大学球界を代表するスラッガーとして活躍。86年、ドラフト4位でロッテに入団すると1年目から打率.274、16本塁打。落合博満がトレードで抜けた2年目は開幕四番に起用された。95年限りで引退し、二軍コーチを務めた。通算成績は569試合出場、打率.243、52本塁打、180打点。現在は株式会社浪速刃物製作所の東京支店長。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。毎週日曜20時からFMたちかわにて『パンチ佐藤の“ガッツで行こうぜ!”』が絶賛放送中。

構成=前田恵 写真=山口高明
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