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プロ野球1980年代の名選手

掛布雅之【前編】エースの勝負球を打つ四番/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

四番打者の宿命


阪神・掛布雅之


「江川(卓)が振りかぶったときに、勝負球と分かる、そういう間(ま)があった。そのインハイへの浮かび上がるような最高の球は、僕の最高のスイングじゃなきゃ打てない。やるか、やられるか、ですよ」

 掛布雅之は、江川との名勝負を、こう振り返る。ただ、こうも続けた。

「江川だけじゃないですよ。そのピッチャー(相手チームのエース)のウイニングショットを打つのが四番打者の役割ですから」

 阪神の四番を担うことが増え始めたのは、1980年代に入ってからだった。78年オフに“3代目ミスター・タイガース”田淵幸一が放出されると、79年には主に三番打者として自己最多の48本塁打を放って、“初代ミスター・タイガース”藤村富美男が持っていた46本塁打の球団記録を更新、初の本塁打王にも輝く。

 左ヒザじん帯損傷や腰痛などの故障に苦しんだ80年は31試合にとどまったものの、81年には99試合、82年は全130試合で四番に座った。このころには、江川との対決は、阪神と巨人の“伝統の一戦”の目玉になっていた。江川の高めへのストレートはミーティングで「打つな」と徹底していた安藤統男監督も、「お前は、それを打て。ファンはお前と江川との1対1の勝負を喜んでくれるんだから」と言っていた。

 初対決は79年7月7日、後楽園球場。どうやって江川のストレートを打ち崩すか、それしか頭になかった。だが、初球はカーブ。多少ガッカリしつつ「怖がっているんだな。勝った」と思った。一方の江川も「やり直せるなら初球にストレートを投げたい」と悔やむ1球だ。そして、やはりカーブをとらえて本塁打に。中途半端な投球で完敗を喫した江川の後悔があったからこそ、名勝負が生まれたのかもしれない。実際、プロの後輩でもある江川が、同学年ながらプロの先輩でもある強打者に挑みかかっていった構図にも見える。

 プロ入りは江川とは対照的だった。父親のツテをたどって当時は現役選手だった安藤に相談して、73年秋のキャンプに参加させてもらう。これがテストのようなもので、当時の金田正泰監督に認められて、その秋のドラフト6位で指名されての入団だった。少なくとも、“空白の一日”のようなドラマが生まれる素地はなかったと言えるだろう。翌74年春のキャンプでも安芸に連れていってもらえず、甲子園球場の居残り組に。初めて一軍の練習を見たときには、周囲の選手が化け物のように大きく見えたという。

「特に田淵さんは2メートルあると思ったくらい(実際には186センチ)。俺の入るべき世界じゃなかったのか、と不安になりました」

“テスト生”から正三塁手へ


「こんな小さい体(175センチ)で、プロでやっていけますか」と、田淵に尋ねたことがあった。

「大丈夫。プロは小さくても、うまくなれるからおもしろいんだ」

 そう田淵は言って、自分のバットを譲ってくれた。そのバットと言葉が宝物になる。

 オープン戦で一軍の主力が冠婚葬祭で欠場したことで、早くもチャンスが巡ってくる。二軍から呼ばれて代打で結果を出すと、遊撃手として先発出場した試合でも打ちまくって開幕一軍の座を手にした。その後は同期入団、といってもドラフト1位で指名された佐野仙好との三塁のポジション争い。2人は連日、コーチとなった安藤のノックを受けた。猛練習に疲れ果てて練習中に居眠りしてしまい、こっぴどく怒られたこともある。最終的には長打でアピールした掛布が三塁手の座をつかんだ。

 77年にはヤクルトとの開幕戦(神宮)で松岡弘から初回に満塁弾。78年にはオールスター第3戦で史上初の3打席連続本塁打、ペナントレースに戻ってもプロ野球記録に並ぶ4打数連続本塁打を放った。初の本塁打王となった79年は打率.327でもリーグ2位。だが、80年は故障もあって11本塁打に終わると、マスコミやファンから叩かれるようになる。心身ともにボロボロだった。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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