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プロ野球1980年代の名選手

バース【前編】“神様”に肩を並べるまで悪戦苦闘の日々/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

最初は“どんぐりの背くらべ”


阪神・バース


 新年を迎えれば神社に詣で、人が亡くなれば寺で弔う多くの日本人にとって、神様も仏様も大事な存在だ。幕末期から明治時代初期の廃仏毀釈までは神仏習合が一般的で、これがまた日本人には馴染みやすく、あまり大きな声では言えないが、神様と仏様の違いがよく分からない……という向きも少なくないのではないか。だからといって、どちらもありがたい存在には違いない。

 何も、神様や仏様の話をしたいわけではない。神様と仏様と並び称されたバースの話だ。かつて、やはり同様のプロ野球選手がいた。西鉄の稲尾和久だ。郷土愛もあって熱狂的な九州の地元ファンがV3の立役者となった稲尾を崇め奉ったわけだが、ファンの熱狂では阪神も負けていない。1985年の阪神ファンにとっては、神様と仏様だけでなくバース様との違いも分からなくなっていたのかもしれない。当時を知らない若いプロ野球ファンには大袈裟、あるいは阪神ファンをおちょくったように受け取られるかもしれないが、実際、それぐらいの活躍であり、熱狂だったのだ。

 さかのぼること2年。83年に来日した。

「はっきり言ってマネーさ。倍の額が提示されたからね。(来日前に所属していた)レンジャーズでは活躍の場がなかった。マイナー暮らしが長くて、オフにはパイプの会社でアルバイトをして、そっちのほうが給料はよかったぐらい(笑)。ひと稼ぎしたら、すぐ(故郷の)オクラホマに帰ろうと思っていたよ」

 米マイナー時代には「ニューヨークからロサンゼルスまで(打球を)飛ばす男」とも評されたというが、8歳のときにボート事故で両足を複雑骨折した影響もあって足が遅く、守備でも一塁しか守れない。結局、メジャー通算9本塁打。一方、倍の額を提示したという阪神だが、推定年俸は2000万円。引退後は一緒にゴルフをする仲でもある安藤統男監督ですら「どうせなら投手が欲しかった」と嘆いていた程度で、球団も特に期待していたわけではなかった。実際の発音は“バス”に近いのだが、打てないと「阪神バスがストップ」などと辛口のスポーツ紙が悪ふざけで揶揄しかねないと、登録名はバースになった。

 来日1年目はオープン戦の死球禍で全治7週間、開幕にも間に合わず。一塁にはレジェンドの藤田平がいて、復帰しても外野へ回って打撃も不振を極めた。さらにシーズン途中ながら阪神は投手のオルセンを獲得。外国人枠もあって、もう1人の助っ人だった外野手のストローターとの、どちらかを解雇することになる。成績は五分五分……というより、どんぐりの背くらべ、といったレベルの争いだったが、残されたのはバース。2歳だけ若い。それだけのことだった。

 では、どんぐりと背を比べていたような助っ人が、どのようにして神様や仏様と肩を並べるようになっていったのだろうか。

チームメートとの邂逅


 キャンプの宿舎で、日本人の選手たちが小さな卓で何やらジャラジャラやっているのを見て「そのゲームを俺にも教えてくれ」と言ったことがある。ありがちな光景で、みな麻雀に興じていたわけだが、通訳を介して「覚えなくていいよ。長く日本にいるわけじゃないんだからね」と無表情に言ったのが岡田彰布だった。やがて、リンダ夫人がホームシックとなり、契約金を返して帰ろうかと思い詰めたとき、英語が堪能な自分の夫人に相談相手になるように言って面倒を見たのも岡田だった。

 メジャー経験があると言っても、下積みの長い苦労人が、チームに溶け込もうと努力する異邦人の姿と、不愛想に突き放しながらも、チームメートとして受け入れようとする中軸で生粋の大阪っ子の姿が見える。代打男の川藤幸三に教えてもらった将棋は腕を上げたらしいが、こうした邂逅を経て、シーズン終盤、ようやくエンジンがかかってくる。

 球団新記録の25試合連続安打。最終的には35本塁打を積み上げた。翌84年は藤田の衰えもあって一塁に定着。それでも、決して盤石とは言えなかった。

写真=BBM
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