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プロ野球1980年代の名選手

門田博光【前編】本塁打にすべてをかけたスラッガー/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

生まれ変わった1980年


南海・門田博光


 与死球王だった西武の東尾修から死球を受けて、異色の逆襲を試みた強打者がいた。この強打者は、バットを持ってマウンドへ向かっていく暴力的な行為には否定的。第1打席で死球を受けると、その試合での残りの打席で、ひたすらピッチャー返しを狙って「今日の野球は、もうどうでもいい」とさえ言い切った。ひたすらバットの角度を考え抜き、見事(?)打球は与死球王の太ももへ……。

 その強打者の名前は門田博光。これほどまでに、同じリーグのエースたちと繰り広げた名勝負のエピソードが豊富な強打者もいないだろう。豪快なフルスイングからの本塁打という印象も強い長距離砲だが、冒頭の“名勝負”からは、バットコントロールに長けた巧打者の一面も垣間見える。

 実際、若手時代はアベレージ型。当時の兼任監督でもあった野村克也が、四番打者である自分の前を打つ三番に抜擢しながら「塁に出ればええんや。長打はいらん」と言っていたこともあった。もともと本塁打へのこだわりは人一倍。野村監督が頼み込んで王貞治(巨人)が「ホームランはヒットの延長」と諭しても、フルスイングを貫こうとした。だが、最終的には三番打者という役割に徹して、ちゃんと結果も残している。野村監督が退任して、ある種の制約がなくなったところで、運命の分岐点が訪れる。79年2月16日、アキレス腱の断裂だ。

 野球をやめなければならないのかと思うほどに落ち込んだ、どん底だった。自著では「一度、死んだ日」と表現している。当時は、アキレス腱を切って復帰できた選手は、ほとんどいなかった。だが、時間が経つにつれて、気持ちを前に向ける余裕ができてくる。走るとき、すり足にすれば負担は少ないのではないか、などと考えられるようになってきた。

 二軍戦を経て9月には一軍へ復帰。ただ、足が完全に元どおりになるのが難しいことも分かっていた。ここでヒントとなったのが治療を担当した病院の医師からのアドバイス。ホームランなら歩いて本塁まで帰ってこられる。走る必要はない……。

 確かに、足も速く右翼守備も一流だった巧打者は、足を奪われたことで、三番打者としてアベレージに徹するような打撃も、外野守備も失った。だが、当時のパ・リーグは指名打者制。守備に就かなくても、バット1本で試合に出場することもできる。そして何より、あこがれてやまなかった最大の夢だけは残されていた。むしろ、その夢を追いかける環境が、これ以上ない形で整ったともいえる。

 完全復活の80年。いや、復活という言葉は適切ではない。「一度、死んだ」巧打者は、長距離砲として新たに産声を上げたのだ。身長170センチの体で、最終的に歴代3位の通算567本塁打を残すホームランバッターが誕生したのが、その80年だった。

“発射台”のイメージで


 完璧なスイングでなければ、本塁打にはならない。現在のような充実したトレーニング器具もない時代にあって、そんな小柄な長距離砲がたどり着いたのが、「トラックの上でミサイルを打つ“発射台”」のイメージだった。

 1キロ重いバットを構え、体をギリギリまでねじって力をため、誰よりも速く、体がねじ切れんばかりのフルスイング。そして、ボールにバットの芯を確実かつ強く当てることを目指す。そして、打球に角度をつけることにも苦心した。左の軸足に重心を置きながら大きくステップすることで捕手のいる後方に体が傾き、普通にバットを振る場合に水平の回転軸が崩れ、スイングに上向きの角度が生まれる。これが“発射台”だ。

 その構築に必要なのが強靭な下半身。徹底的に下半身を強化し、その重いバットを納得いくまで振り続けた。さらに当時はタブーと言われていたウエート・トレーニングも取り入れ、体重も増やす。自らのフォームや、相手投手の配球やクセ、特に各チームのエースを研究し尽くした。すべてが、最大の夢であり、唯一のプロ野球選手として生き残る術でもあるホームランのために……。

写真=BBM
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