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プロ野球1980年代の名選手

門田博光【後編】逆境をはねのけて“不惑の大砲”へ/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

40歳でキャリアハイ


88年、40歳のシーズンに打撃2冠に輝き、MVP、正力松太郎賞も受賞した


 アキレス腱の断裂という重傷から第一線への復帰を果たした門田博光だったが、思わぬところに苦労することになる。それは、指名打者という“ポジション”だった。足に負担がかからないのはいいのだが、味方の守備中に、どうしても気持ちが切れてしまうのだ。そこで、ベンチで決して座らず、ひたすら目でボールを追い続けた。かつてのように右翼手として、そのボールを追いかける必要はないが、そのときと同じ感覚を持ち続けることで、打者としての自分のリズムを維持した。

 そして1980年、初の大台を超える41本塁打を放って、カムバック賞に。出場は111試合にとどまったが、その試合数で大台を突破したことで自信が深まった。翌81年は7月に月間プロ野球記録を更新する16本塁打。「なんで投手は俺の打てるところばかりに投げるんだろう」と不思議に思ったという。最終的には44本塁打で、本塁打王のタイトルを日本ハムソレイタと分け合う。71年に打点王の経験はあったが、本塁打王は初めて。すべてをホームランという夢だけに捧げた努力が最初に実った瞬間でもあった。

 次の目標には60本塁打を掲げたが、翌82年は入団時からクセになっていた肩の脱臼を繰り返して19本塁打に終わる。すると83年、背番号を60番に変更。もちろん、目標としている本塁打の数だ。開幕から好調に本塁打を量産したが、くるぶしに死球を受けて1カ月の離脱。40本塁打で2度目の戴冠となったものの、決して満足できる数字ではなかった。

 だが、すでに35歳。その後は復帰したころのような勢いを失い、それなりの結果は残してはいるものの、さらに満足できない数字にとどまり続ける。しかし、逆境に誰よりも強い男は、39歳となって迎えた87年、ふたたび輝き始める。プロ野球24人目となる通算2000安打に到達すると、本塁打は3年ぶりに30本台を突破して31本塁打。打率.317で6年ぶりに3割も超えた。そして88年。プロ19年目、40歳にして、キャリアハイを迎えることになる。

 一方の南海は創立50周年という節目のシーズンだったが、4月に川勝傳オーナーが逝去して、終盤はダイエーへ球団譲渡が報じられた。それによって集中力を欠き、思うように本塁打数を増やせなかったというが、キャリア唯一の全試合出場で44本塁打、125打点で本塁打王、打点王の打撃2冠。“不惑の大砲”は流行語にもなった。

 40歳で規定打席に到達した選手は少なくないが、447打数で44本塁打という数字は群を抜いている。80年シーズン中に40歳となった王貞治(巨人)ですら444打数で30本塁打。125打点もダントツのトップ。そして、40歳でキャリアハイに到達したのは長いプロ野球の歴史にあって唯一無二だ。

エースとの真剣勝負


 89年、ホークスはダイエーとなって福岡へ移転したが、同じ関西にあるオリックスへ移籍。それでも91年には“古巣”のダイエーへ“復帰”して、92年限りで現役を引退した。現役最晩年には「オレは老衰」とボヤいたこともあったというが、最後まで貫き続けたのは各チームのエースとの真剣勝負だった。

 90年代の話になるが、その“ターゲット”となったのが近鉄の野茂英雄だ。ドラフトでは8球団が競合した黄金ルーキー。“トルネード”からの剛速球に照準を合わせると、バットを920グラムの軽いものに持ち替えて、公式戦第1号本塁打を浴びせることに成功する。門田42歳、野茂21歳。そして奇しくも最後の打席で対戦したのも、その若者だった。渾身のストレート3球に、これ以上ない豪快なフルスイングでの三振で応えている。

 多くのエースたちと真剣勝負を繰り広げてきた男が賛辞を惜しまないのが阪急の山田久志だ。死球が“持ち味”だった西武の東尾修とは対照的に、山田はカーブのときも打者にケガをさせないように投げていて、それゆえ勝負に集中できたと振り返る。この両者のエピソードは、次回に譲ることとしたい。

写真=BBM
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