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プロ野球1980年代の名選手

山田久志【前編】阪急黄金時代をけん引したサブマリン/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

70年代パ・リーグの顔


阪急・山田久志


「対戦していて思ったんや。ヤマちゃん、やめるとちゃうんやろうな」

 1988年のある日、朝早くに、その前日の試合で対戦したばかりだった南海の門田博光から電話がかかってきたことがあるという。

「いやいや、これからも勝負しましょう」

 そう答えたというが、のちに、「たぶん感じたんだろうね。でも、打者に同情されるようじゃ終わりさ」とも語る。

 そのとき、山田久志は引退を決めたばかりだった。70年代から80年代のパ・リーグを引っ張ってきた最高の投手と、最強の打者だけに分かる特別な何かがあるのだろう。もっとも印象に残る打者として名前を挙げるのが門田だ。その門田によれば、19年もの長きにわたり、幾度も名勝負を繰り広げてきた中で、カーブは3球から5球ぐらいしかなかったという。

「あんなフルスイングをする選手はいないし、あんなわだかまりのない勝負ができることはないからね。門田さんとは一発やられるか三振を取るかだけ。向こうは、山田ならここ、と決めたポイントがあった。そこに来たらフルスイングする。俺もそれが分かっていて、そこに投げた。抑えられたら自分は調子がいいというバロメーターだね。ちゃんと試合をしてんのかね、2人とも」と笑いながら振り返る。

 この88年、“不惑の大砲”と呼ばれた門田と違って、全盛期は70年代だったと言える。まさに阪急黄金時代。69年のシーズン途中に入団し、70年から86年まで17年連続2ケタ勝利。最多勝利3度、最優秀防御率2度は、すべて70年代だ。76年からは3年連続MVP。70年代前半は日本シリーズでV9巨人に届かず、71年の日本シリーズ第3戦(後楽園)では、あわや完封という9回裏二死から王貞治にサヨナラ本塁打を浴びたこともあるが、ここから速球に頼った投球スタイルから脱却、新たなウイニングショットとなるシンカーを習得し、70年代後半のV4につなげていくことになる。阪急黄金時代の顔ともいえるサブマリン。それはまた、70年代パ・リーグの顔でもあった。

 開幕戦でプロ野球新記録となる5年連続での完投勝利を皮切りに、21勝を挙げて3度目の最多勝となった79年を最後に、80年代はシーズン20勝に届くことはなかった。それでも86年までは2ケタ勝利は続け、エースの代名詞でもある開幕投手も続いた。だが阪急は、かつての恩師でもある西本幸雄監督の率いる近鉄に2年連続でリーグ優勝を許し、王座から遠ざかっていく。

最後の開幕戦完投勝利


 80年の開幕戦は勝敗がつかなかったが、シーズン13勝10敗と勝ち星は激減し、負け数は倍増。ただ、これには黄金時代を築いた打線が衰え、その援護が若手の簑田浩二が放った31本塁打ぐらいだったことも大きい。防御率は5年連続で2点台を維持した。

 上田利治監督が3年ぶりに復帰して、チームも5位から22位に浮上した翌81年も防御率2点台ながら、雨で2試合も中止となったこともあり、開幕戦での連勝もストップして、最終的に13勝12敗。決して悪い結果ではないが、その全盛期に比べれば、明らかに数字を落としてしまっていた。

 続く82年には、3年ぶりの開幕戦勝利を皮切りに、アンダースローの投手としては初めて通算200勝に到達。シーズンでは16勝9敗と大きく勝ち越す。だが、パ・リーグは西武が初優勝。10年ぶりに1シーズン制に戻った83年は開幕戦に敗れ、阪急も西武に独走でのV2を許してしまう。パ・リーグでは、70年代の阪急に代わって、新たに西武の黄金時代が始まっていた。それでも、そのまま終わるような男ではなかった。

 そして84年。ロッテとの開幕戦(西宮)で主砲の水谷実雄が2回裏に左耳の上に死球を受けると、「頭の周辺を狙って投げたらいかんよ」と気迫の完投勝利。エースの5年ぶりとなる開幕戦完投勝利に、阪急も勢いづいた。

写真=BBM
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