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プロ野球1980年代の名選手

鈴木啓示【前編】“悲運の闘将”に心酔していた“草魂”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

枯れかけていた“雑草”が……


近鉄・鈴木啓示


「スズ、つらいほうの道を選んでみい。楽なほうは、いつでも選べるんや」

 1981年シーズン終盤、9月23日のロッテ戦(川崎)。早々にKOされた鈴木啓示は、宿舎のホテルでユニフォームのまま西本幸雄監督に引退の意思を伝えると、こう言われた。

 座右の銘は“草魂”。硬いアスファルトの下から、隙間を割るようにして芽を出す雑草に心打たれた。60年代から近鉄ひと筋、チームをエースとして引っ張ってきた左腕にとって、まさかの5勝11敗、初めて2ケタ勝利を逃した屈辱のシーズンだったが、この西本監督の言葉によって、枯れかけていた“雑草”が再び背を伸ばし始めた。

 ちょうど3年前、78年9月23日。近鉄は阪急との天王山“藤井寺決戦”に敗れてプレーオフ進出を逃し、阪急のV3を許した。このとき、西本監督の辞意を感じて、「監督、僕らを見捨てないでください」と直訴して引き留めている。

“草魂”の左腕は、この“悲運の闘将”をオヤジと呼んで心酔していた。同様に、勝ち運に恵まれていないところがあった。79年から近鉄はリーグ2連覇。ともに日本シリーズで広島と激得し、79年は日本一を目前にして、江夏豊に抑えられる“江夏の21球”で敗れた。雪辱を期した80年は、第7戦(広島市民)で、逆転で1点をリードした6回裏からマウンドに上がるも、広島打線の猛攻に再逆転を許して、敗戦投手になっている。

 西本監督が阪急で黄金時代の礎を築き、近鉄の監督に就任したのが74年。このとき、すでに近鉄のエースとして君臨していた。1年目から2ケタ10勝、2年目の67年から5年連続で20勝を超えて、真っ向勝負に美学を感じていたが、他チームの徹底マークでクセを研究し尽くされ、72年からは3年連続で20勝に届かないどころか、負け越しが続く。伸び悩みながらも美学を貫こうとする左腕に、西本監督は迫った。

「そろそろテクニックを覚えたらどうや。ストレートを思い切り投げて、打たれても本望なんて、マスターベーションや。20勝するのはええけど、負けを1ケタにしてくれ。そうしないと強いチームのエースにはなれん」

 そんな監督に対して、「阪急みたいな強いチームと一緒にせんでくれ」と反発。そのオフ、自ら阪神の吉田義男監督に電話して獲得を頼んだこともあった。翌75年のオープン戦で、同じ左腕で阪神の山本和行を見て「あいつを見習え」と言われると、「格が違うやろ」と試合後、さっさと帰宅してしまった。だが、西本監督もしつこい。怒るわけでもなく、同じことを言い続けた。“草魂”、ついに根負け。

「思い切って耳を傾けてみたら、まず理屈を説いて、あとは繰り返し繰り返しやって身に着けていくやり方。不器用なタチの私にぴったり合いました」

負けないエースへの変貌


 実際、若手時代のパワーやしなやかさは失われつつあった。杉浦忠コーチの指導もあってフォームを修正、力任せともいえる豪快なフォームから、緩急と制球力を重視したノーワインドアップに変わる。そして22勝6敗。4年ぶりに20勝を超えて、負けも1ケタ。まさに西本監督が言ったとおりのエースとなった。

 20勝を超えたのは6度目だが、負けが1ケタにとどまったのは初めてのことだ。プレーオフでは阪急に屈したものの、前期を制して初めて“優勝”というものも経験した。

「西本さんが来なかったら、200勝くらいで引退してたんじゃないですか。西本さんの厳しさ、熱さに打たれ、また粘れたというのはあったと思いますよ」

 ただ、技巧派と呼ばれることに対しては、強く反発している。

「そのときの体の状態に合わせた投げ方やねん。無駄を省いたら、こうなっただけや。だから理にかなった投げ方やねん」

 頑固なところも、そこにある種の素直さのようなものを持ち合わせているところも、どことなく西本監督に似ていた。

写真=BBM
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