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プロ野球1980年代の名選手

山本浩二【後編】唯一無二の“第8戦”を最後に置いたバット/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

37歳の本塁打王



 一時的に失速し、衰えたかに見えたものの、迎えた1983年、ふたたびバットが火を吹く。4月の阪神戦(甲子園)ではプロ15年目にしてサイクル安打を達成。最後の1本は三塁打だったが、本塁打王争いのライバルだった三塁手の掛布雅之が微妙(というか絶妙?)なタイミングでタッチ、セーフとなっている。守備では長く中堅手としてセンターラインを支えてきたが、年齢もあって左翼へ。左中間の飛球を見誤って額に当てる“ヘディング”はご愛嬌。基本的には無難にこなした。

 持病の腰痛もあって、全身のバネをフルに使ったフルスイングは影をひそめた。特にインコースをさばくときには、その場で腰を回転させる意識で振り抜いていて、それによってバットのヘッドが振り抜いて、飛距離を稼いでいた。さらに、本塁打にするには、「球をとらえてから、もうひとつ押す。球をバットで運ぶような感覚なんです」という。

 どうしても腰に負荷がかかってきたが、もともと本塁打を狙って引っ張ろうとすると「リキんでしまって結果が出ない」タイプ。右方向へと巧みに運んで本塁打を量産するようになる。最終的には36本塁打。掛布や原辰徳(巨人)とのタイトル争いを制して、4度目の本塁打王に輝いた。そして、これが最後の打撃タイトルとなる。

 翌84年は広島が4度目のリーグ優勝、そして3度目の日本一。もちろん、同じ数だけ美酒を味わってきていた。ペナントレースは序盤こそ精彩を欠いたが、夏場から復調。日本シリーズは初優勝の75年に激突した阪急と2度目の顔合わせとなった。当時は黄金時代を謳歌していた阪急だったが、このとき黄金期にあったのは広島。同い年の“鉄人”衣笠祥雄も絶好調で、小早川毅彦長嶋清幸ら若手も育ってきている。そして4勝3敗で雪辱。確かに、世代交代は進んできていた。それでも、その存在感は健在だった。

 続く85年は猛虎フィーバーに呑まれ、古葉竹識監督が勇退。阿南準郎監督が就任したが、“その次の監督”は既定路線だった。引き受けた阿南も「監督なんて柄ではないんだけどね。コウジに引き継ぐことだけを考えていた」と語っている(結果的には88年まで3年間、指揮を執ってから“禅譲”となった)。

 その86年、巨人との激戦を制して5度目のリーグ優勝。27本塁打を放ったものの、それは投手力での優勝だった。優勝を決めると、ナインの手で宙に舞った。

「若いヤツらが一生懸命やって、ワシらを優勝させてくれた」

 日本シリーズは西武と初の顔合わせ。リーグ2連覇を果たし、黄金時代を迎えた強敵だ。そんな頂上決戦に、引退を心に決めて臨んだ。

“ミスター赤ヘル”のラストゲーム


 球史に残る名勝負となった日本シリーズだった。第1戦(広島市民)で9回裏に同点本塁打を放ち、試合はそのまま引き分け。その後3連勝も、そこから3連敗を喫した。第6戦(西武)は40歳の誕生日だったが、その日に日本一を飾ることもできず。史上初、第8戦での決着となった。もしかすると二度とないかもしれない“日本シリーズ第8戦”こそ、“ミスター赤ヘル”のラストゲームだった。

 しかも、舞台は広島市民球場。広島のナインも、ファンも、日本一を目指していたことは間違いない。それも史上初の第8戦だ。

 試合は敗れた。5度目の日本シリーズ、そしてラストゲームを、夫人と男子ばかりの子どもたちが見守った。満員のスタンドからは、「コウジ、コウジ!」とコールが止まらなかった。

 胴上げされ、報道陣に囲まれると、号泣。

「山本浩二は幸せな男です」

 背番号8は広島で初めて永久欠番となった。

 ファンには勝利より、あるいは優勝より、さらには日本一より、大事なものがあるのかもしれない。またコウジが見られる、まだコウジが見られる……。去りゆく“ミスター赤ヘル”の名残を惜しむかのような、唯一無二の“第8戦”だった。

写真=BBM

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