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“無名”からはい上がった中日・浅尾拓也の変わらぬスマイル

 

日本福祉大4年時の浅尾。愛知大学二部リーグに在籍し、全国的には無名の存在だった


 さわやかな「浅尾きゅん」のスマイルだった。9月26日、中日浅尾拓也投手が今季限りでの引退を表明。記者会見では終始、吹っ切れた表情が印象的で、悔いのない12年間の現役生活をまっとうできたという。

 初めて取材したのは2006年8月。日本福祉大4年生だった浅尾の端正なマスクは、12年前とまったく変わっていない。マウンド上では表情一つ崩さないリリーバーも、実は短気な性格だった。

 常滑北高(現常滑高)は普通科の県立校でグラウンドはサッカー部と共用。1日約3時間の練習時間と浅尾自身、決して、野球に熱を入れている球児ではなかった。1年秋から2年夏までは捕手。同秋になり、自身の代(11人)に投手がいないというチーム事情により背番号1を着けている。八幡中では捕手専任であったため、小学校以来となるピッチャーだった。しかし、浅尾が好投を続けても打線の援護に恵まれず、3年夏は県大会3回戦敗退。甲子園は口にもできない遠い場所だった。

 一人でマウンドを守らないといけない自覚。浅尾は「ピンチでも表情を顔に出さない。とにかく我慢して、周りに声をかけられるようになりました」と、投手としての心構えを学んだ。当時の球速は130キロ中盤がやっと。そこまで野球に対して本気になることはなく、高校生で白球に終止符を打つつもりだった。そんな折、地元の知多で、野球部強化に乗り出していた日本福祉大から声がかかった。

 2年春までは愛知大学リーグの三部、同秋から4年秋までは二部に在籍。つまり、全国大会を目指せる一部リーグで投げたことがなかった。浅尾はウエート・トレーニングを好まず、腹筋やキャンパス内を周回する4種類(2、4、5、7キロ)のロード、近隣の海岸でのランニングで基礎体力、下半身強化に努めた。2年秋に140キロを突破すると、3年春には145キロ、そして4年春には149キロと下部組織ながら、スカウトからにわかに注目を浴びる存在となった。

 評価を決定的にしたのは4年生の夏、愛知大学選抜チームとしてハワイ・アイランドムーバースと対戦した親善試合である。二部から唯一、選出された浅尾は自己最速の150キロを計測すると、スライダー、フォーク、シンカーと変化球のコントロールも抜群だった。

 テークバックの小さい投球フォームは捕手出身の特性で、しかも鋭い腕の振りであり、打者からはボールの出どころが見づらかった。名城大・清水昭信(元中日)、中京大・深町亮介(元巨人)の視察を目的に来たスカウトは、浅尾の快投に心酔したのは言うまでもない。本人もこの絶好のアピールの機会を逃すまいと、しっかりと準備を進めてきたのだという。

 4年秋には最速を152キロに伸ばしてチームを二部優勝へ導き、清水がいた名城大との入れ替え戦を制して「一部昇格」の手土産を後輩に残し、卒業している。

 プロ入り後は不動のセットアッパーとして、2010、11年のリーグ優勝に貢献。11年にはMVPに輝き、昨年に通算200ホールドをマークしている。毎試合、ブルペンで準備するリリーフの仕事は過酷だ。浅尾の長年の活躍は、日の目を見る機会の少なかった「中継ぎ投手」が脚光を浴びるきっかけとなった。

 日本福祉大時代、高校時代の捕手の名残か、浅尾は1年秋から背番号「22」を着けてきた。4年秋のリーグ戦を前にして、将来像をこう語っていた。憧れの投手が2人いた。

「ボールのキレは阪神・藤川さん(球児)、制球力は中日・川上さん(憲伸)を目標にしています」。浅尾はまさしく、この言葉を実践した。キレの良い真っすぐに、制球力抜群の投球スタイル。失敗が許されない救援投手としての適性を持ち合わせていた。生まれ育った地元・愛知での12年間のプロ野球人生。高校、大学時代は「無名」でもプロで活躍できる「証」を残した浅尾の足跡は、後世に語り継がれる。

文=岡本朋祐 写真=BBM

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