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広岡達朗コラム

原辰徳に告ぐ。弱いチームを強くして勝て/広岡達朗コラム

 

球界全体のレベルを引き上げる視点


15年限りでユニフォームを脱いだ原辰徳氏。次に指揮を執る日は来るのか


 原辰徳が巨人の監督を辞めてから3年がたった。

 通算12年間の在任中は、リーグ優勝7回、日本一3回という実績を残した。WBCでも世界一に輝いている。立派なものだ。

 だからこそ私は言いたい。今度ユニフォームを着るときには古巣の巨人ではなく、一番弱いチームを率いて、そのチームを強くすべきだ、と。

 なぜこういうことを書くかというと、プロ野球は巨人が単独で存在しているわけではない。12球団があって巨人がある。弱いチームを強くすれば、ほかのチームも切磋琢磨して強くなる。引いては、球界全体のレベルが引き上げられるのだ。原もそういう広い視野に立って物事を考える年齢に来ているのではないか。

 ただし、仮にヨソのチームに行って従来の“巨人方式”を押しつけても失敗するのは目に見えている。

 では、巨人方式とは何か。

 私の現役時代、巨人では、一つのポジションを巡って、熾烈な戦いが繰り広げられた。意欲のない選手は容赦なく切り捨てられていった。

 V9時代には森昌彦(現・祇晶)というれっきとした正捕手がいたにもかかわらず、その座を脅かすような“刺客”が次から次へと入団してきた。平安高で甲子園に3度出場した野口元三、早慶戦を沸かせた神宮のスター大橋勲(慶大)、六大学で戦後2人目の三冠王に輝いた立大の槌田誠ら。当時の巨人はそうして選手の競争意識をあおった。その結果、こいつなら大丈夫だと太鼓判を押された男がレギュラーを獲得していく。

 当然、森にすれば面白くない。「俺がいるのに、なぜ(新戦力を)取るんだ」と思うのは当然だ。そこで森は、一人のライバルに対して腹の中とは正反対のアドバイスを送ったりもしたという。手法はいささかえげつなかったが、そこまでしてプロの世界で生き抜こうする必死の姿勢は、認めるべきものがあった。

 いまのように、AというポジションがダメならB、それでダメでもCというポジションがあるというユーティリテープレーヤーの発想など当時はあり得なかった。

 要は、一つのポジションを奪うのに、選手がそれぞれ命懸けになっていたのだ。こういうチームの監督であれば、やる気の見えない選手には、「じゃあ二軍に行け」と一刀両断すればよかった。

自分自身の勉強になる


 だが、巨人方式が他球団で指揮を執ったときにも通用すると思ったら大間違いだ。若手に少し欠点やアラがあるからといって、そのたびに引導を渡していたら、一軍には選手がいなくなってしまう。

 そこで、自分がいかに苦労してポジションを勝ち取ってきたかということを、なぜ言わないのか。

 選手を丁寧に育て上げなければいけないのに、その教え方を知らないのだ。だから失敗してしまう。

 現在の球界を見ると、工藤公康ソフトバンク監督)にしても辻発彦西武監督)にしても、それなりに勉強はしている。今年のパ・リーグの順位がそれを物語っている。

 弱いチームを育てて勝つということは、何より自分自身の勉強になる。原には、そろそろ新たなステージに進んでほしいと思う。

広岡達朗(ひろおか・たつろう)
1932年2月9日生まれ。広島県出身。呉三津田高、早大を経て54年に巨人入団。大型遊撃手として新人王に輝くなど活躍。66年に引退。広島、ヤクルトのコーチを経て76年シーズン途中にヤクルト監督に就任。78年、球団初のリーグ制覇、日本一に導く。82年の西武監督就任1年目から2年連続日本一。4年間で3度優勝という偉業を残し85年限りで退団。92年野球殿堂入り。

写真=BBM
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