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プロ野球1980年代の名選手

川藤幸三 記録よりも記憶に残るトラの“春団治”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

アキレス腱の故障で代打の切り札に


阪神・川藤幸三


「阪神で野球ができるなら給料は半分でいい」

 1983年オフ、引退勧告を受けた際に、こう言って現役続行を決めた。阪神の“春団治”川藤幸三だ。そんなキャラクターもあって、阪神ファンから絶大な人気を誇った。

 よく「記録よりも記憶に残る選手」と言われるが、そんな選手の典型といえるのではないか。通算成績は771試合の出場で211安打、16本塁打、108打点、打率.236。規定打席到達は1度もなく、記録に目立ったものはない。ただ、現役生活は19年、実働は18年に及ぶ。平均的な数字よりも、ここ一番での勝負強さが最大の武器。それゆえ、ファンの記憶に深く刻み込まれたのかもしれない。

 福井県の出身。少年時代はやんちゃだったが、佛國寺の甚玄和尚に諭されて、野球に取り組んだ。本格的に野球を始めたのは小学生のころにテレビドラマ『スクール・ウォーズ』で主人公のモデルにもなった山口良治氏に言われて中学生の球拾いをしたことがきっかけ。若狭高では67年に春夏連続甲子園出場。春はエース、夏は左翼手で、ともに四番打者として出場したが、いずれも初戦で敗退している。ドラフト9位で翌68年に阪神入団。指名された時点では投手だったが、プロ1年目から外野手として一軍デビューを果たしている。

 一般的な“キャリアハイ”といえるのが74年だ。自己最多の106試合に出場し、リーグ最多の20犠打も記録。当時は俊足強肩の外野手だったが、この74年にアキレス腱を故障、俊足という武器を失い、その後は代打の切り札となっていく。

「ゲーム前の練習で最後に1本、全力でスタンドに放り込むんや。相手に振れてると思わせんとアカンからな」

 試合に先発出場するわけではなかったが、勝負は試合の前から始まっていた。

「ベンチからグラウンドに出ると、目が慣れてないのよ。体の感覚とズレがある。それを調整するためには、初球を振ることや」

 出番は試合の終盤、相手チームのリリーフエースとの対戦が多かった。代打の切り札と、抑えの切り札との、わずか1打席の勝負。

「ここ一番は打率10割ぐらいの気持ちやった。ここ一番で打てれば、打率なんてどうでもエエわい」

 そうは言うものの、81年まで4年連続で打率3割を超えた。左キラーでもあり、「角(三男など。巨人)や梶間(健一。ヤクルト)は横から来るから、その角度に最初から平行に立った。そしたら変則でもなんでもあらへん」。

 特に巨人のリリーフエースだった角との対決は通算打率.370で1本塁打、82年にはサヨナラ打も浴びせている。通算代打サヨナラ打は6本で、70年代には巨人の新浦壽夫、80年代には広島大野豊、角、大洋の斉藤明夫、広島の川口和久、大洋の遠藤一彦ら、すべて各チームのエースあるいはリリーフエースからのもの。大洋の2人を除く4人は左腕で、左キラーぶりも分かる。記憶に残る男の、誇るべき記録だ。

球宴ではアウトで名場面


 引退勧告を受けてなお、勝負強さは健在。むしろ磨きがかかったとも言える。84年は13安打ながら、自己最多の20打点。通算6本目となる代打サヨナラ打を放っているが、これは唯一の代打サヨナラ本塁打でもあった。

 日本一イヤーの85年は、阪神打線が大爆発。出番は半減したが、ナインのまとめ役として機能、優勝決定の際には胴上げもされた。

 翌86年は球宴に初出場。セ・リーグの監督となった阪神の吉田義男監督からの推薦だった。第2戦(大阪)の9回表に代打で登場すると、打球は左中間へ。すると一塁ベースコーチの王貞治(巨人監督)が腕を回し、「こらアカン」と思いながらも二塁を狙い、余裕のアウト。“春団治”らしく、しっかり爆笑を取っている。

 その86年限りで現役を引退したが、自己最多の5本塁打。球宴での“大活躍”もあり、“本領発揮”という意味では、このラストイヤーが“キャリアハイ”だ。

写真=BBM
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