1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 廣岡監督への反発と心酔
迎えた1980年、『がんばれ!! タブチくん!!』の大ヒットで少年たちを中心に人気が爆発。勢いを失いかけていた田淵幸一の打撃も大爆発した。本塁打王となった75年と同じ43本塁打を放ち、自己最多の97打点もマーク。西武も前期こそ最下位に沈んだが、後期は優勝を争って、“西武旋風”を巻き起こした。
だが、翌81年は右ヒザの故障などもあって86試合の出場に終わった。引退も頭をよぎったが、思いとどまる。西武へ移籍してすぐに静岡県の下田で行われたキャンプに参加して、愕然となった。グラウンドも選手も、とてもプロのレベルではなかったからだ。そのころから比べれば確実に戦力は整ってきていた。自身も阪神では新人王、本塁打王に輝いている。ともに目指し続けながら届いていないのは優勝だけだった。
その81年オフ、
根本陸夫監督がフロントに転じ、“最後の補強”として
廣岡達朗監督を招聘。新体制で迎えた82年がターニングポイントだった。もちろん、優勝を目標にしてきたことは間違いない。だが、「おっさん」と呼ばれて慕われていた生え抜きの
東尾修は投打の主力として並び立つチームメートという以上に、遊び仲間でもあった。いわば、ぬるま湯。それが廣岡監督の就任で熱湯、というより氷の水に変わる。
廣岡監督は最初のミーティングから、いきなり「一番の高給取りが守れない、走れない。これではダメだ」と批判。阪神を放出されたときと同じだった。キャンプでは一塁守備を練習させられたが、開幕から8試合目で指名打者に。マスコミを通して批判を繰り返す廣岡監督に「どこまでオレをいたぶれば気が済むのか」と不信感を募らせ、ついにスタメンを外されると「今年でやめてもいい」とまで言った。
好調だった西武だったが、チームはバラバラに。6月13日に首位から陥落すると、ベテラン選手の申し出を聞いて廣岡監督がミーティングを開く。雨降って地固まる。そこからチームは団結し、前期優勝へと突き進んでいった。
そして、プレーオフでは後期優勝の
日本ハムを破って、悲願の西武、そして自身の初優勝。
中日との日本シリーズも制して、初の日本一にも輝いた。銀座の店を貸し切っての宴会では酔っ払って「廣岡は俺たちを勝たせてくれたんだから、いいヤツだ!」と絶叫。当初の反発がウソのように、すっかり心酔するようになっていた。
「最初は好きじゃなかったけど途中から好きになっちゃった。A型どうし気が合うんだね」
幻のキャリアハイ
翌83年は開幕から絶好調。5月には13本塁打を放って阪神時代に続く2度目の月間MVPにも選ばれ、6月にも12本塁打、7月10日にはシーズン29本塁打に到達して、当時のプロ野球記録だった
王貞治(巨人)のシーズン55本塁打を更新するかの勢いを見せる。その本塁打はチームの勝利にもつながり、「田淵がホームランを打てば負けない」という神話まで生まれた。
だが、またしても死球禍。13日の近鉄戦(日生)で右手尺骨を骨折、離脱する。それでも10月に復帰してチームのラストスパートに加わり、連覇に大きく貢献した。出場は82試合ながら、最終的に30本塁打、77打点。
「あれ(死球禍)がなければ、本塁打、打点の2冠は取れてたね」
日本シリーズでは、かつてのライバルだった巨人と激突。巨人に勝ってこそ真の日本一、という思いは西武ナインと共通していた。そして迎えた第1戦(西武)、2回裏に
江川卓から本塁打。連続日本一への号砲となった。
オフには正力松太郎賞も贈られたが、右手の調子が戻らず、本塁打と思った打球が伸びなくなり、84年限りで引退を決意。
「自分はキャッチャーとしてプロ入りした男。最後はキャッチャーで終わりたい」
公式戦ラストゲームでは5年ぶりにマスクをかぶった。引退試合は85年のオープン戦。相手は古巣の阪神だった。通算474本塁打。阪神ファンからの六甲おろし、西武ファンからのタブチ・
コールに包まれ、そのバットを置いた。そして奇しくも、西武でしか実現できなかった優勝という夢に向かって、阪神は突き進んでいくことになる。
写真=BBM