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プロ野球1980年代の名選手

高木守道 疑いようのないドラゴンズ愛を見せた男/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

中日ひと筋21年



 老いは誰にも平等に訪れる。ただ、そのタイミングと、どのように衰えていくか、ということは平等ではない。1980年が球史におけるエポックとなったことは序章でも触れた。60年に入団して以来、中日の中心選手として長きにわたって活躍を続けてきた高木守道も、この80年がラストイヤーとなる。

「僕を実力で抜く者が出てこない限りは現役を続けたい」と語っていた。実際、78年にはコーチ兼任となりながらも通算2000安打を達成し、79年は打率.300、11本塁打。『燃えよドラゴンズ!』で歌われるように一番打者のイメージが強いが、シュアな打撃で塁に出るというよりも、通算236本塁打、プロ18年目の77年にプロ野球記録に並ぶ4打数連続本塁打を放ったように、初球から打ちにいく思い切りのいい打撃が持ち味で、2ケタ本塁打は14度目となる一方で、打率3割に到達したのは3度目となり、プロ20年目にして、さらなる進化を遂げたようにも見えた。

 初のリーグ最多18犠打もマーク。3度の盗塁王に輝いたころの脚力こそないものの、走っても11盗塁を決めている。2ケタ盗塁は15度目だった。もちろん、芸術的なバックトスで鳴らした堅実かつ華麗、球界随一の二塁守備も相変わらず。投手の球種や打者のデータを頭に入れて、最後は勘と決断力で1球ごとに守備位置を変えてきたが、データは確実に蓄積され、勘も衰えを知らなかった。3度目のダイヤモンド・グラブ受賞。ただ、表彰が始まったのは13年目となった72年からで、キャリアのすべてで表彰が行われたとしたら、受賞は3度にとどまらなかったに違いない。

 攻守走に健在かと思われた。だが、その眼には徐々に衰えが忍び寄ってきていた。80年の中日はアクシデントが続いた。谷沢健一がアキレス腱痛から奇跡の復活を遂げたものの、その対価の支払いを迫られているかのように、打線の主力に離脱が相次ぐ。

 79年に36本塁打、103打点、打率.317で“チーム三冠王”となった大島康徳は開幕して早々に交通事故に遭い離脱。大型遊撃手として急成長を遂げ、二遊間を組む宇野勝も故障に苦しめられた。

 投手陣にも誤算が重なる。79年に新人王となった藤沢公也、快速球で沸かせて“スピードガンの申し子”と呼ばれた小松辰雄の急失速は、もはや大誤算といってもいい。藤沢は開幕から9連敗、最終的には1勝15敗と極度の不振に陥り、小松も1勝6セーブで、前年の6勝16セーブから大きく成績を下げた。最下位に沈んだチームに同調するように、竜のレジェンドは勢いを失っていく。視力の衰えはバットを湿らせた。

引退後も中日ひと筋


 そして80年オフ、巨人では長嶋茂雄監督が退任。肩を痛めて遊撃から二塁に回った岐阜商高時代、立大生だった長嶋がコーチに来て、「この選手は5年経ったら日本一の内野手になるよ」と絶賛され、長嶋の現役引退では引退試合に出場できず、お詫びの電話を入れたこともある間柄だった。そこへ追い打ちをかけるかのように、王貞治も現役を引退する。

「走っても守っても負けない自信はあったけど、王さんがいなくなったらリーグ最年長選手になってしまう。それもどうかなと思って」

 80年限りで現役引退。かつて一、二番コンビを組んだ中利夫監督も退任したが、背番号1のままコーチとしてチームに残った。さすがに83年には背番号を変更したが、翌84年には二軍監督に就任。86年には休養した山内一弘監督に代わって指揮を執った。

 その後も解説者を挟みながら、中日ひと筋は続く。92年には監督に就任して、94年には2期目の長嶋監督が率いる巨人との“10.8”最終戦同率決戦を指揮。2012年には黄金時代を築いた落合博満監督の後を受けて2度目の監督就任も、チームは失速した。

 疑いようのないドラゴンズへの愛だったが、やや一途すぎたのかもしれない。13年の退任セレモニーでは、ブーイングを浴びせるファンへのスピーチを感謝の言葉で締めくくった。

写真=BBM
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