1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 クセを徹底的に研究
「お前ら、バットをしまっとけ」
1981年9月3日の西武戦(西京極)、2対2の同点で迎えた9回裏、こうベンチに向かって言い放ったのはプロ18年目、阪急の高井保弘だ。代打本塁打の世界記録保持者。
「自分の体調や相手の投手を見てピンとくるときがある。あのときがそうだった」
先頭打者の代打に送られると、
永射保の2球目を期待どおりの代打サヨナラ本塁打。通算27本目の代打本塁打となり、これが現在も世界記録として残っている。
「僕が出るときは試合終盤で、同点か逆転のホームランが期待されている場面。だから全部ホームランを狙う。僕の中ではヒットになったのはホームランの打ち損ない」
試合中でも気づいたことがあれば、すぐノートを取り出してメモし続けた。手首の角度、グラブの隙間、ちょっとした仕草や表情の動きなどを細部まで観察。ベンチからだけではなく、出番がない試合の序盤はネット裏の部屋へ行って投手をのぞいた。
こうして投手のクセを徹底的に研究し、ある選手から「ベンツと交換してくれ」と頼まれたこともあるという秘密兵器の“高井メモ”を生かし、ヘッドが太くグリップが極端に細い独特のバット1本と、ひと振りに懸ける卓越した集中力で阪急を支え続けた世界一の代打男だ。
入団は64年。しばらくは二軍生活が続いたが、二軍では首位打者1度、本塁打王2度、打点王2度と、当時から打撃には天才的なものがあった。一軍定着のハードルとなったのが、一塁しか守れなかったこと。正一塁手の座は
スペンサーから
加藤秀司(英司)へと継承され、一軍で残っていたポジションは“代打の切り札”だけだったのだ。
4年目の67年に第1号。これはプロ初本塁打でもあった。70年に第2号を含む3本、72年には
中西太(西鉄)のプロ野球記録に並ぶ5本を放つ。73年は1本のみだったが、74年はプロ野球記録を更新する6本。球宴にも出場して、第1戦で
松岡弘(
ヤクルト)から代打逆転サヨナラ2ランを放ってMVPに。第2戦では出番がなく、第3戦では四球で一度もバットを振らず。まさに、ひと振りで手にしたMVPだった。
球宴史上初の代打本塁打を浴びることになった松岡だが、そのクセはオープン戦で完全に把握されていた。対戦しない可能性も高いセ・リーグの投手にまで観察が及んでいたことからも、その徹底ぶりが分かる。なお、その観察は相手の監督にも及び、76年から2年連続で日本シリーズの相手となった巨人の
長嶋茂雄監督がサインを出すクセも把握していたという。
ふたたび記録を伸ばした80年代
世界記録を更新する19本目を放った75年からは代打本塁打を徐々に減らし、76年の1本を最後にピタリと止まる。成績が伸び悩んだからではない。指名打者制が採用され、レギュラーに定着したからだ。
先発出場すれば代打本塁打は伸ばせない。ただ、77年からは3年連続で規定打席に到達、
長池徳二に代わって四番にも座って、78年には自己最多の22本塁打、腰痛の加藤に代わって一塁も守った79年にはワキ腹痛、左手首の腱鞘炎、両アキレス腱痛、右太もも肉離れと満身創痍ながら21本塁打、リーグ7位、自己最高の打率.324を記録した。
80年代に入ると代打に戻り、ふたたび記録が伸び始める。80年は3本、81年には4本を積み重ねたが、13年ぶりに代打本塁打がゼロに終わった82年限りで現役を引退した。なお、鈍足でも知られ、通算三塁打は78年の1本のみだった。
シーズン代打本塁打記録は76年に
中日の
大島康徳によって更新されたが、通算代打本塁打は通算130本塁打の約2割を占める。通算代打サヨナラ本塁打3本はプロ野球タイ記録。通算代打109打点は歴代2位だ。
代打記録に限ればレギュラー定着で記録が伸びなかったことが惜しまれるが、その間、球団史上唯一のリーグ4連覇、3年連続の日本一に大きく貢献。こんな強打者が代打で控えているところが阪急黄金時代の凄味だった。
写真=BBM