週刊ベースボールONLINE

プロ野球1980年代の名選手

篠塚利夫【前編】 ミスターが才能を見出した天才ヒットメーカー/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「僕も一緒にやめます」


巨人・篠塚和典


 1980年10月21日、巨人の長嶋茂雄監督が退任を発表。事実上の解任だった。プロ野球を国民的スポーツに押し上げ、その後も引っ張り続けた“ミスター・プロ野球”。58年に華々しいデビューを飾って以来、脱がなかった伝統のユニフォームに袖を通すことがなくなった球界最大のスーパースターに、「僕も一緒にやめます」と電話をかけたのが、篠塚利夫(和典)だった。だが、長嶋は激励した。

「監督が代わっても、伊東キャンプを経験したメンバーが、これからの巨人軍を支えていく。あのメンバーが持っている実力を出せば、10年、15年はジャイアンツを支えていけるんだから、頑張れよ」

 時計の針を、長嶋の現役ラストイヤーとなった74年に戻す。この夏、甲子園で頂点に立った銚子商高で、中京商高との一戦を見ただけの長嶋が、その天才的な打撃センスに惚れ込んだ。この大会では、打率.421をマーク。当時からプロを意識して木製バットを使っていたが、その後、湿性肋膜炎で約2カ月半の入院を余儀なくされた。

 長嶋新監督となった巨人は球団史上初の最下位に転落し、銚子商高は甲子園に春夏ともに届かなかった翌75年秋のドラフトでは巨人から1位で指名される。病気の不安から指名を回避する球団が多く、巨人の中でも反対する声もあったが、「俺が責任を持つ」と言い切った長嶋監督の独断による指名だった。自ら銚子商高の斉藤一之監督に「1位で行きます」と電話をかけたという。

 銚子商高では四番打者を担い、本塁打も狙ったが、キャンプで驚いたのは周囲との身体の違いだった。じっくりと鍛えたい長嶋監督の意向もあり、目標をヒットメーカーに切り替えると、ファームでネットの近くに立ってバットが当たらない素振りを繰り返すなど、バットコントロールに磨きをかけていく。

 2年目の77年に一軍デビュー。79年には一気に出場機会を増やしたが、巨人は5位に沈んだ。そのオフが、伝説の伊東キャンプだ。その最終日、坂道ダッシュで檄を飛ばす長嶋監督に、苦悶の表情で思わず叫んだ。

「自分が行ってみろ、この野郎!」

 一緒になって走り出した長嶋監督だったが、いくら“ミスター・プロ野球”とはいえ、40歳を過ぎて若手の精鋭たちにダッシュで勝てるわけもなく、ラストでクタクタになってゴールイン。とっくにゴールしていた精鋭たちが爆笑で迎え入れた。一枚岩となった巨人ナインだったが、迎えた80年は二塁のレギュラーに定着したものの、巨人はギリギリ勝率5割を維持して3位に滑り込むのが精一杯。終盤の追い上げで若手たちが自身をつけた末の、長嶋監督の退任劇だった。

「劇的な1年だった」


 プロ入りの経緯から、伝説の猛特訓まで、まさに恩人だった。その電撃解任で受けた衝撃は想像に難くない。だが、長嶋の激励で気持ちを切り替えた。そして、その激励での“予言”は的中することになる。翌81年を、「劇的な1年だった」と振り返る。

 藤田元司監督が就任し、原辰徳が入団。ようやくつかんだレギュラーの座を新人に明け渡し、開幕は控えでスタートする。だが、三塁の中畑清が故障離脱、原が本職の三塁へ回ったことで二塁手として返り咲くと、ひたすら打ちまくった。

 中畑の復帰後もレギュラーを譲らず、少年時代から目標にしていた阪神の藤田平とハイレベルな首位打者争いを展開。下半身主導のヘッドが遅れて出るスイングで、特に遊撃手の頭上へ打球を運ぶテクニックは歴代でも最上級と評された。

 そのバットに引っ張られるかのように巨人は4年ぶりのリーグ優勝、そのまま8年ぶりの日本一も決めた。最後の10試合で40打数20安打と藤田を猛追して、自己最高の打率.357をマーク。1厘差でタイトルには届かなかったが、自らをプロに導き、プロとして育てた長嶋の思いを継承し、自身の才能にも、チームにも、花を咲かせた1年となった。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング