今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 大洋・秋山の熱投も……
今回は『1964年8月31日号』。定価は50円だ。
大洋・
秋山登がフル回転している。
8月11日の阪神戦(川崎)では、過去3度成功した左打者の際、外野に回り、また戻る
三原脩監督の策もあった(アンダースローの秋山は左打者を苦手にしていた、いや、そう三原監督は見ていた)。
しかし4度目は代わった左腕・
鈴木隆がヒットを打たれ、さらに犠打を二塁悪送球でわずか2球で代わった後、再登板も滅多打ちを食らった。
秋山は記者団を前に「泣いても笑ってもあと1カ月。ここで頑張らなきゃ男じゃない」と力説。ただ、疲労は色濃い。少し先走るが、8月は10試合、なんと62回に投げながら、防御率は3.77だ。
4月は12試合に投げ、1.10と好調だった。他の投手の故障、不振で夏場から一気に崩れ始めた秋山に頼るしかなかったのだ。
阪神・藤本定義監督は「あれを僕は大正13年にやった。大正13年の野球じゃあねえ」と三原監督を挑発。出身地から愛媛狸(藤本)、香川猿(三原)とも言われた2人の毒舌合戦も話題となっていた。
三原にとって藤本は早大、巨人の大先輩だが、マスコミの前ではあえて「藤本」と呼び捨てにしていた。
確かに互いに、特に三原が大人気ない。
三原は、この年のオールスターのコーチを前年優勝、巨人・
川上哲治から藤本とともに頼まれたが辞退(藤本は受ける。当時は各リーグの優勝監督がコーチを選んだ)。
表向きは、「先輩監督2人にはさまれては川上もやりにくいだろう」だったが、その後、親しい記者にこう言い放ったという(当然。報道されることは見越していたはずだ)。
「スリッパはいたコーチとやるんではたまらないよ。監督が川上で、コーチがこれでは私が何もかもやらんといかん。これはかなわんじゃないですか」
藤本は、持病のリューマチで足が不自由なため、休場したり、サンダルでベンチ入りしたりしていた。
対して、この年、先発ローテにこだわり、オーダーもほとんど変えなかった藤本は猫の目のように変わる三原の戦略に対し、「野球の神様のように言っているが、邪道だ。いかにも理論はあるようだが根がないではないか」
これに三原は「藤本が筋道立てて論破してくるならともかく、くだらんから取り合わないよ」
周りは「なんで2人はこんなにいがみ合うんだ」と不思議がっていたという。
巨人・王貞治のバットは変わらず好調。すでに46号を放ち、南海・
野村克也の持つ52本に迫る。さらに打率でも首位の
江藤慎一に9厘差(8月14日時点)。三冠王も見えていた。
東京の
小山正明がついに通算200勝を達成した。8月13日、南海戦(大阪)での達成、これが今季24勝目だった。「12年やってきたが、何だかこれで一区切りできたようでほっとした」
では、また月曜日に。
<次回に続く>
写真=BBM