1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 通算200勝への挑戦
巨人のエースとして、現役にしがみつき、みじめな姿をファンに見せたくない。そんな思いが強かった。だが、迎えた1980年。通算200勝まで、あと2勝に迫っていた。79年は初めて2ケタ勝利に届かず、引退も考えたが、現役続行を決断。エースナンバー18番を背負い続けてきた堀内恒夫の大台への挑戦が始まった。
甲府商高からドラフト1位で66年に巨人へ入団。当時の背番号は21番だった。高卒ルーキーながら1年目から開幕13連勝の快進撃。最終的には16勝2敗、防御率1.39で最優秀防御率に輝き、新人王、沢村賞にも選ばれた。オフに引退した
藤田元司から背番号18を継承。藤田が育て上げたエースナンバーを、さらに不動のものへと成長させていく。
その後は78年まで13年連続2ケタ勝利。72年には自己最多の26勝を挙げて最多勝、2度目の沢村賞に加えてMVPにも。主砲の
王貞治、
長嶋茂雄ら“ON砲”以外で、V9期間中では唯一となるMVP受賞者となった。野球センスはON以上といわれ、守備も打撃も一流。67年10月10日の
広島戦ダブルヘッダー第1試合(後楽園)では、投げてはノーヒットノーラン、打っては3打席連続本塁打の離れ業をやってのけた。
だが、V9時代も終わり、そのピッチングにも陰りが見え始める。若手時代にビッグマウスで“悪太郎”と呼ばれた男が、79年に入団した
江川卓に背番号18を譲ろうとしたこともあった。このときは江川が「恐れ多い」と辞退している。
80年は本拠地開幕戦となった4月11日の広島戦(後楽園)でシーズン初登板も、5失点で7回途中に降板、敗戦投手に。19日の阪神戦(後楽園)で2度目の先発登板で5回1失点の好投を見せたが、試合は引き分け。シーズン4試合目の登板となった5月8日の
中日戦(後楽園)では先発として6回2失点、ようやく勝ち星をつかんだ。通算199勝だ。
5月24日の阪神戦(甲子園)では3回裏に守備の乱れも絡んで同点とされるも、粘り強く投げ続ける。打線は2回表にシピンが2ラン本塁打を放ったのみで沈黙。2対2のまま9回裏となり、先頭の
掛布雅之を投ゴロに打ち取って一死としたが、そこから
ラインバックに二塁打を許すと、
佐野仙好を敬遠した後、
竹之内雅史にサヨナラ打を浴びて、力投は報われなかった。
そして迎えた6月2日の
ヤクルト戦(後楽園)。ベテランとなった18番を雨が襲う。だが、1回表に1点を許すも、打線が果敢に援護。その裏、王の適時打で同点とすると、2回裏、3回裏と追加点を奪う。投げては2回表から毎回、走者を許しながらも無失点で切り抜け、6回裏に巨人が1点を加えたところで、ついに雨も味方した。降雨
コールド。通算200勝だ。
「悪運が強いな。僕の野球人生と同じだ」
引退試合のドラマ
「あと50勝はしたいな」と語ったが、80年は3勝、81年は1勝。コーチ兼任となった82年は、わずか4試合の登板で勝ち星なし。そして83年、巨人は2年ぶりのリーグ優勝、自身も1勝を挙げて通算203勝としたが、シーズン限りの引退を決意した。とはいえ、そのままおとなしくユニフォームを脱ぐような男でもなかった。
シーズン最終戦となった10月22日の大洋戦(後楽園)。夫人に初めて「球場に来てくれ」と言った試合だったという。6対3で迎えた8回表から救援登板。リリーフカーもあったが、「男の花道だからね」と小走りでマウンドに向かい、無失点に抑える。
ドラマは、その裏に始まった。打順は三番に入っていたが、通算20本塁打の“好打者”に打席を回すべく、打線が爆発する。先頭で五番の
駒田徳広が本塁打を放って号砲とすると、九番で途中から一塁に入っていた
山本功児は3ラン。一死一塁で打席が回ると、4球目を「空振りするつもりで」強振、打球は左翼席へと飛び込んでいった。
9回表も無失点で抑えて、通算21本塁打とともに、通算6セーブ目もマーク。サプライズで胴上げもされたが、涙はなかった。
「俺がプロ入りした頃に生まれた選手がいるんだから、もうやめてもいいころだろう」
そう言ってニヤリと笑った。
写真=BBM