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プロ野球1980年代の名選手

長崎啓二 阪神で日本一を呼ぶ満塁弾を放った好打者/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

阪神・長崎啓二



首位打者の憂鬱


 長いプロ野球の歴史において、タイトルを獲得したことで、これほどまでに気分が憂鬱になった選手はいなかったのではないか。1982年、中日田尾安志とハイレベルな首位打者争いを繰り広げた大洋の長崎啓二(慶一)。その打撃は序盤から終始、打率は3割5分を前後する安定感だったが、6月から田尾が安打の量産体制に入ったことで、タイトル確定は最後の中日との3連戦(横浜)にもつれこんだ。

 2試合目を終えた時点で打率.351、一方の田尾は打率.350。首位打者が確定したのは3試合目の10月18日、大洋にとっても中日にとってもシーズン最終戦だった。優勝も懸かっていた中日は田尾が当然のように先発出場したが、この試合を欠場し、田尾が5打席連続で敬遠されたことによって、批判を一身に集めることになったのだ。

 プロ10年目にして初めて手にしたタイトルだったが、気持ちは滅入っていた。もともと結果を気にし過ぎるタイプで、法大の先輩でもある広島山本浩二から「結果は反省するが、すぐ忘れて次に行け」という助言で打撃の不振からは精神面でも脱却できるようになっていたが、このときは打撃不振とは趣が違って、打って憂鬱を振り払うわけにはいかなかった。そしてオフの表彰式。最多出塁のタイトルで来ていた田尾とともに、巨人の助監督だった王貞治に呼ばれた。

「127試合(3連戦の前)までに勝負できなかった田尾くんの負け」……この王の言葉に、初めて気持ちが楽になったという。

 高知県出身。大阪の北陽高1年の夏に甲子園を経験し、3年秋の68年にファンだった阪神からドラフト8位で指名されるも、拒否して69年に法大へ。その秋から四番に座って東京六大学リーグ4連覇に貢献。すでに好打者としての才能を発揮して、4年生となった72年には史上初の春夏連続首位打者に輝いた。そしてドラフト1位で翌73年に大洋へ。だが、いきなりプロの壁にぶつかる。そのオフ、沖山光利コーチの下で猛特訓が始まった。

 ドラフト外の入団で、73年は一軍出場がなかった2年目の高木好一(嘉一、由一)とバットを振り続ける毎日。配球を読むために、ピッチャーが投げた球をノートにメモするクセもつけた。さらに、“青バット”で1リーグ時代にセネタースでホームランブームを巻き起こした大下弘がコーチに就任。50歳を過ぎた大下の柔らかいスイングに衝撃を受け、自らのフォームに取り入れた。

 俊足巧打の中距離ヒッターとして3年目の75年に初の規定打席到達、78年にはサイクル安打も達成。だが、打撃フォームの追求は、レギュラーを張るようになってからも続く。

阪神で心から野球を楽しむ


 雨傘を持つように肩の力を抜き、グリップをヘソのあたりまで下げて、柔らかく上げながらタイミングをはかる。そんなリラックスした独特のフォームが完成したのが80年だった。そして82年に首位打者。田尾とともに外野のベストナインにも選ばれた。

 阪神で奇しくも田尾とチームメートとなった87年限りで現役引退。わずか3年の在籍だったが、阪神で初めて経験したのが、甲子園球場の大歓声と、チーム一丸となって優勝を目指す野球、そして優勝と日本一だった。お客さんの完成が選手を育てることを実感しながら、心から野球を楽しんだ。ノートをつける習慣も続いていて、2年連続三冠王のバースに助言を求められたこともあったという。

 移籍1年目の85年は勝負強さで優勝に貢献。西武との日本シリーズでは2試合にまたがる2打席連続本塁打もあった。まずは2勝2敗で迎えた第5戦(甲子園)の5回裏、第3打席にダメ押しの2ラン。これが日本シリーズの初本塁打となる。

 続く第6戦(西武)。外野方向からは向かい風が吹いていた。六番打者として先発し、1回表に第1打席を迎えると、塁上にバース、掛布雅之岡田彰布を置いた二死満塁から、右翼席へ満塁弾。この4点に西武は最後まで届かず、これが最終的に日本一を決めたグランドスラムとなった。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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