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プロ野球FA史

【FA史】長嶋巨人が投打の大物“工藤&江藤”を獲得/1999年

 

1993年オフからスタートしたFA制度。いまや同制度は定着し、権利を得た選手の動向は常に注目されている。週べONLINEでは、そのFAの歴史を年度別に振り返っていく。

工藤が2年連続で日本一に


工藤公康(右)がFAでダイエーから巨人へ移籍。入団会見で長嶋茂雄監督と握手


 1999年のシーズンが開幕すると、穏やかだったストーブリーグから打って変わって、トレードが活発化。シーズン中に前年オフを上回る4組の交換トレードが成立した。特筆すべきは西武で左のセットアッパーとして活躍してきた杉山賢人だ。6月7日に阪神へ移籍したものの、翌2000年5月25日には近鉄へ、さらに続く01年の開幕後、4月5日に西武時代の恩師でもある森祇晶監督の率いる横浜へ移籍。3年連続でシーズン途中に移籍した珍しいケースとなっている。

 99年はダイエーとなっての初優勝、日本一イヤー。そのオフは、前年の反動もあったのか、さらにトレードが過熱する。主戦クラスは不在ながら、中日と近鉄の間で3対3の大型トレードが成立。そのうち門倉健は近鉄で先発ローテーションに定着した。

 また、ロッテ小宮山悟はFA宣言の前に自由契約に。過去に球団と契約でトラブルとなったことがあり、球団が先手を打ったとも言われたが、小宮山は希望どおり横浜へ移籍して、01年オフにFAでメジャーへ転じることになる。

 FAで動いたのも大物ばかり。国内移籍は3件で、そのうち2人、94年オフに続いて投打の大物1人ずつを獲得したのは巨人だった。

【1999年オフのFA移籍】
12月6日 江藤智広島→巨人)

12月7日 星野伸之オリックス→阪神)

12月17日 工藤公康(ダイエー→巨人)

 唯一、新天地が巨人ではなかったのは、阪急からオリックスにかけてスローボールで打者を翻弄し続けたエースの星野だ。ただ、頻脈にも苦しめられ、阪神移籍3年目の02年限りで現役を引退している。

 自由契約を希望して阪神へ転じた広澤克実の穴を埋めるかのように巨人へ加入したのが、広島の主砲だった江藤。長嶋茂雄監督の背番号33を譲り受け、広島時代と同じ背番号で翌00年から2年連続で30本塁打を超えるなど、巨人が得意とする空中戦に加わった。

 ダイエーを初優勝に導いてMVPを獲得した工藤は、いきなり自宅を訪ねてきた長嶋監督の熱意もあって、3チーム目の巨人でも“優勝請負人”に。初めてのセ・リーグながら勝率リーグトップの安定感で12勝を挙げてリーグ優勝に貢献すると、日本シリーズでは王貞治監督の率いる古巣のダイエーとの“ON対決”にも参戦。別のチームながら2年連続で日本一を経験した。

“大魔神”がFAでメジャーへ


佐々木主浩は2000年、夢だったメジャーでプレー


 海外移籍でも大物が動いた。98年に絶対的なクローザーとして横浜38年ぶりの優勝、日本一における立役者となった“大魔神”佐々木主浩。92年に日米野球で力と力の勝負に魅了されて以来、かすかな夢としてメジャー挑戦は頭の片隅にあった。

 その後も日米野球で数々の大物選手と対戦し、しびれるような真っ向勝負の緊張感を味わい、それなりに抑えたことで自信を手にする。チームも優勝、日本一を果たし、99年の右ヒジ手術も成功。満を持してのFA宣言だった。

 そして海を渡ってマリナーズへ移籍。本拠地のセーフコ・フィールドには“DAIMAJIN”の電光掲示が輝いた。当初はストライクゾーンの違いや滑るボール、硬いマウンドに苦しんだが、それでも1年目から37セーブで新人王に。2年目の01年には当時の球団新記録となる45セーブ、翌02年には史上最速となる160試合目での通算100セーブ到達など、4年間で129セーブを残している。

写真=BBM
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