今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 球界で初の補償金
今回は『1964年11月30日号』。定価は50円だ。
巨人・
広岡達朗の移籍問題は急展開を迎えていた。
最後のオープン戦である九州遠征に向け、それまで外されていた広岡にも南村コーチから「メンバーに入っているから準備しておけ」と声がかかった。
しかし出発の11月11日にいきなり
川上哲治監督がメンバーから広岡を外してしまった。困ったのが「広岡に伝えてくれ」と言われた南村コーチだ。自分が伝えただけに言いづらい。
「だったら、それは監督から……」と言ったが監督は拒絶。
困った南村コーチは、「ここまでこじれたらもう俺にはどうしようもない。だったら両者を会わせてやろう」と「監督から話があるから」と広岡に、川上監督には「広岡が話があるというんで」とウソをつき、その日の夕方に2人を球団事務所に呼び出した(
荒川博コーチがやったという説もある)。
大変だったのは、球団事務所で対面した2人だ。「なにか話があるというが」と川上監督が言い、広岡は「監督さんが話があるというから……」。
ひとまず応接室には入ったが、話し合いは7分30秒で終了。
川上は「功労者である広岡君のために、いまのさらしもののような状態から解放されるよう結論を出したいと思っている」と放出の覚悟を決めた発言をしている。
その夜、広岡は引退を決意。翌日、まず球団取締役の正力亨氏に会い、これまでの経緯を洗いざらい喋ったうえで、
「巨人を愛し、強くなってもらうために自分は退団します。巨人以外で働くことは考えられないので、ユニフォームを脱ぎます」
と告げた。亨氏は必死に慰留したが、広岡は聞かず、その後、亨氏は大正力、つまりは父・正力松太郎氏に相談した。
正力松太郎氏は、その後すぐ広岡を呼び寄せ、
「巨人は功労ある君を出すことはしない。川上には私が言っておく」
ときっぱり。広岡は、この場ではっきり返事はしなかったようだが、大正力の一言は絶対だ。これで広岡問題は、ひとまず終わりとなった。
その日、近鉄の永江社長が「広岡を金銭で獲得したい」と交渉のため上京してきたが、完全に肩透かしとなった。
また1人、ケガに泣いた選手の話があった。
西鉄・
田辺義三だ。
ユーティリティー的な起用をされていた野手で、62年は自己最多94試合に出場したのだが、10月7日、東京球場での試合前に事件が起こった。
バッティング投手をするはずの2人が二日酔いで球場に現れず、代わりに買って出た打撃投手をしていた際、打球が左後頭部に当たり、頭蓋骨陥没骨折となったのだ。
手術自体は成功したのだが、後遺症が残り、64年、10月23日、無情の自由契約となった。
その後、内村コミッショナーの指示で統一契約書の傷害保障の条項が日本球界で初めて適用され、西鉄は田辺に補償金200万円を支払っている。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM