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プロ野球1980年代の名選手

張本勲 通算打率3割&300本塁打&300盗塁!究極の“トリプルスリー”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

3000安打はホームランで


ロッテ時代の1980年5月28日の阪急戦で3000安打を達成した張本勲


 前人未到の通算3000安打まで、あと39安打に迫っていた。確かに体力の限界も近づきつつあった。だが、巨人という球団は冷たい。V9が終わり、最下位に転落したチームの救世主となった張本勲を金銭トレードでロッテへと放出したのだ。かつては“暴れん坊”と呼ばれた東映で主軸として活躍。チームが日拓を経て日本ハムに、フライヤーズがファイターズになると、東映カラーの払拭が図られる。そこで移籍したのが巨人だった。

「巨人ではファンが毎試合、自分のヒットを待っていてくれる。少年ファンがキラキラした目で応援してくれるんです」

 巨人では同い年で親友の王貞治と“OH砲”を形成。76年から2年連続で首位打者を僅差で逃したが、リーグ連覇の原動力となる。

「優勝で(首位打者を逃した)悔しさは吹っ飛びました。もう巨人の張本になっていたからね。個人の成績は関係ない」

 そんな球界きっての安打製造機は、1980年を3チーム目のロッテで迎えることになる。

「納会で王がオーナーに『張本を残してください』と言ったんです。強い口調で。オーナーは驚いていた。それを聞いたとき、もう思い残すことはないな、と思いました」

 巨人のラストイヤーは中心性網膜症で左目の視力が落ちて急失速した。それでも、まだ打撃では若い選手に負けないと思っていた。だが、心の中は複雑だった。

「もうダメかな、巨人を出された、いろいろな思いが交錯していて、以前は必死に振っていたバットも、どこか気合が乗っていなかった。振りも鈍くなっていただろうね」

 全盛期ほどの勢いはなくても、ロッテにとって、その存在感は大きかった。打順は六番が多かったが、80年の前期優勝にも貢献する。そして5月28日の阪急戦(川崎)、第1打席で右前打を放って通算2999安打とすると、迎えた第4打席、マウンドには剛速球で鳴らす山口高志がいた。

「アイツ球、速いからね。まっとうにはいけないから、滅多にヤマは張らないんだけど、100パーセント初球は真っすぐと決め込んだ。イチ、ニ、サンで、高かろうが低かろうが、多少ボールだろうが、いったろうと。バッターボックスの一番後ろに立ってね。そしたら、ちょっと高めだったけど、まったくうまく当たったねえ、真っ芯で(笑)」

 右翼席の照明塔にブチ当てる本塁打で、通算3000安打を決めた。

「全盛期のホームランより大きかったかもしらんね。もう、渾身の力を込めて振ったから」

通算3085安打のプロ野球記録以外にも……


 自らに厳しい男だったが、打球の行方を見届けてると、珍しくヘルメットを放り投げた。

「あんなこと、する男じゃないんだけどねぇ。ワンちゃん(王)と一緒で。打たれた投手に失礼だから、絶対にしないんだけど……。恥ずかしい。非常に後悔してます」

 山口には、あとで謝ったという。ただ、

「あの日はね、おふくろも球場に来ていた。80歳も過ぎていて、『年寄り呼んだりして!』なんて口では言っていましたが。グラウンドで写真を撮って、いやあ、うれしかったなあ」

 父親を早くに亡くし、女手ひとつで育ててくれた最愛の母だった。

「3000本を打ったら、やめようと思っていた。今まで打てていた球がポップフライになったりしていたから、ぼちぼちかな、とね」

 80年限りで王が引退。「引退するなら一緒に」と言っていたこともあり、引退しようとしたところで、重光武雄オーナーに慰留されて、もう1年だけプレー。81年限りで23年にわたる現役生活を終えた。

 通算3085安打は広く知られるプロ野球記録。それだけではない。通算打率の“規定打数”は4000だが、その倍を超える9666打数で打率.319を残した。さらに通算504本塁打、319盗塁で、500本塁打と300盗塁をクリアしたのは唯一。通算打率3割、300本塁打、300盗塁という究極的な“トリプルスリー”を達成したのも唯一だ。

写真=BBM
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