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プロ野球1980年代の名選手

間柴茂有 “連敗左腕”が日本ハムで築いた不敗神話/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

長くプロ野球記録だった無傷の15連勝



 幸運を呼んできたのはペットの犬たちだった。1匹目が家に来て、プロ初勝利。2匹目を飼うことにしたら、初の2ケタ勝利に到達した。そして1981年の夏、3匹目と暮らすようになると、もう負けることもなくなり、無傷のシーズン15連勝でチームもリーグ優勝……。確かに、その愛くるしさによってペットは飼い主の心に安らぎをもたらし、そんな飼い主が想像を超える活躍をするようになっても不思議ではない。

 ただ、癒しだけで勝てるほど、ましてや負けずにいられるほどプロ野球の世界は童話のように甘くはない(ペットの効能を否定しているわけではないので念のため)。それでも、あの1年は童話よりも“神話”と呼べるほど奇跡のシーズンだった。

 日本ハムとなって初めて、東映時代と合わせれば2度目のリーグ優勝に輝いた81年。“親分”大沢啓二監督にとっても初めての歓喜だったが、特に先発投手陣はクローザーに移籍1年目の江夏豊が控えていた安心感もあって、のびのびと投げていた印象がある。

 特に投げれば投げるだけ貯金を稼いだのが左腕の間柴茂有だった。開幕から15連勝のまま、シーズン閉幕。つまり、1年間まったく負けることがなかったのだ。1シーズンで無傷の15連勝は長くプロ野球記録。2013年に楽天田中将大(現ヤンキース)が24連勝で更新したが、シーズン勝率1.000ではプロ野球記録に並ぶ。田中も楽天の初優勝における立役者といえるが、投げても負けない投手が1人でもいたら、チームが優勝しないほうが不思議なのかもしれない。

 ちなみに、シーズン20連勝を含む35勝6敗の結果を残したのが西鉄の稲尾和久だが、その57年の西鉄もリーグ優勝を果たしている。彼らが築いた“不敗神話”がチームに呼び込む好循環も優勝へのアクセルとなったのだろう。

 ただ、稲尾や田中とは違って、もともとは連敗で鳴らした(?)左腕だった。1チーム目の大洋では初勝利まで4年にまたがって7連敗。75年に開幕6連勝も、ふたたび連敗のトンネルに突入して足かけ3年、13連敗を喫した。本名の間柴富裕では「勝負運が弱いらしい」と登録名を改めたのが功を奏したのか、なんとか77年に連敗を脱出。翌78年に日本ハムへ。3勝に終わった79年オフ、新任の植村義信コーチに「なんでそんないいボールがあるのに3勝なんだ」と言われたことが自信につながった。

 迎えた80年は後半にフォークを習得したことで、右打者の内角に食い込む“真っスラ”とのコンビネーションで打たせて取る投球が完成。左腕ながら右打者に強いのも持ち味となり、初の2ケタ10勝を挙げた。

終盤にサヨナラ2連勝で完投も


 続く81年が“不敗神話”のシーズンだ。前半は打ち込まれたこともあったが、黒星がつかず。後半に入ると「間柴が投げれば勝てる」というムードがチームに浸透、たとえ相手に打たれても、日本ハム打線が爆発して逆転勝利という“勝ちパターン”が相次いだ。

 もちろん、運や勢いだけではない。後期優勝に近づきつつあった9月1日の近鉄戦(後楽園)では同点から、7日の南海戦(後楽園)では3点ビハインドから、日本ハムがサヨナラ勝ちを収めているが、いずれも完投勝利。あきらめずに9回まで粘投を続けたからこそのサヨナラ勝ちだった。

 この81年ほどの“神話”と呼べるシーズンはなかったものの、決して単なる“一発屋”ではない。2ケタ勝利は3度目となった83年の10勝が最後となったが、その後も息の長い活躍を続ける。88年オフに戦力外通告も、目標として掲げていた通算500試合登板を目指して、新天地を求めた。

 そして、82年までチームメートだった村上雅則が投手コーチを務めていたダイエーへ。移籍2年目となった90年5月9日の近鉄戦(北九州)に先発、通算500試合登板を達成すると、選手枠を空けるためにシーズン途中ながら現役を引退して投手コーチ補佐に。現役生活は、すでに21年となっていた。

写真=BBM
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