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プロ野球1980年代の名選手

森繁和 西武の初代ドラフト1位右腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

所沢へ移転した西武とともに


西武・森繁和


 21世紀に中日で黄金時代を築いた落合博満監督の右腕であり、2016年シーズン途中から18年まで指揮を執り、オフに退任もシニアディレクターとしてチームに残ることもあって、めっきり中日のイメージが強くなっている森繁和だが、選手としては西武ひと筋。それも単なる生え抜きではない。埼玉は所沢へ移転して新たな歴史をスタートさせた西武を象徴するような右腕だった。

 プロ入りは“西武元年”の1979年。しかもドラフト1位での入団で、即戦力となって、西武球場こけら落としとなった4月14日の近鉄戦で先発のマウンドを託された。ローテーションとの兼ね合いもあるが、東尾修ら実績のある功労者やベテランが指名されるような試合を任されたことからも、その期待度が分かる。だが、5回5失点で敗戦投手に。そんな弱い時代を象徴するかのように、その後も負けまくり、1980年代は黄金時代を呼び込むかのように勝ちまくった。

 駒大4年の76年春に東都大学リーグで8勝を挙げて優勝に貢献して MVP。その後の全日本大学選手権では史上2度目の完全試合を達成する。日米大学野球では江川卓(のち巨人ほか)や斉藤明雄(のち明夫。大洋)らと日本代表に選ばれ、秋のドラフト1位でロッテに指名されたが、拒否して住友金属へ。やはり日本代表となり、のちにロッテなどで歴代最多の三冠王3度に輝く落合(当時は東芝府中)とチームメートになった。

 西武1年目の79年から先発を中心に投げまくって5勝7セーブも16敗。西武も2引き分けを含む開幕12連敗で前期は最下位、後期こそ5位につけたが、シーズン通算では最下位に沈む。ともに厳しい船出となった。

 西武が前期は最下位、後期は4位に終わったものの一時は首位にも立った80年に初の2ケタ10勝。2年連続で規定投球回にも到達したが、ともに防御率は4点台で、当時の西武を物語るかのように安定感を欠いた。

 西武も着実に力をつけていく。前期は2位に浮上、後期は5位で通算では2年連続4位となった翌81年に自己最多の14勝。防御率も3点台と安定感も向上したが、これが最後の規定投球回到達となった。

 西武となって初優勝、日本一に輝いた82年。満を持して開幕投手を務めたが、勝敗はつかなかったものの、6点のリードをもらいながらも6回途中5失点で降板、そのまま西武も敗れた。次の試合では2失点で完投負けという惜敗も、以降2連敗、勝敗こそつかなかったが一死も奪えず初回5失点KOなどと結果を残せず、5月にはリリーフへと無念の配置転換に。まだまだ当時は先発を外されることが格下げのような印象があった時代だ。「いつかは先発復帰」……そう思って腕を振ったことが“仇”となった。

黄金時代初期のクローザーに


 球速や制球というより、キレのあるストレートとシュートで押してフォークで勝負を決める投球スタイルもクローザーにピタリとハマった。初優勝の82年は10勝10セーブ。迎えた83年は西武がリーグ連覇、そして“盟主”巨人を破っての日本一に輝いたシーズンだ。

 その83年がハイライトとなる。リーグ最多の59試合に登板して、日本ハム江夏豊とともにプロ野球記録を更新する34セーブ。救援勝利を合わせた39セーブポイントは江夏を上回り、最優秀救援投手に輝いた。規定投球回には届いていないが、防御率1.48と安定感も抜群。「江夏さんの上に行けたら、こんなに嬉しいことはない」と喜んだ。

 だが、翌84年、その江夏が西武へ移籍加入すると、若いこともあり中継ぎに回るなど起用法もチグハグとなり、成績も下降線をたどる。西武も阪急に王座を奪われた。その後は右ヒジを痛め、86年を手術のため棒に振り、翌87年に復帰して防御率1.57と安定感も復活して連覇にも貢献したが、起用法はワンポイントに近いセットアッパーだった。

 初めてゼロ勝に終わった88年限りで引退。薄氷の4連覇を果たした西武だったが、翌89年は近鉄に王座を譲ることとなった。

写真=BBM
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