1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 “王の被害者”からの脱却
ニックネームは“ジャンボ”。公称189センチ、実際には192センチあったという長身にメガネという風貌で、淡々としつつも全力で投げ込んだ。80年代中盤の近鉄をクローザーとして支えた鈴木康二朗だ。
だが、近鉄で優勝を経験しなかったこともあるが、この男にはヤクルト時代の印象がどうしてもつきまとう。それは78年に13勝を挙げて初優勝、日本一に貢献したというプラスの印象だけではない。77年に巨人の
王貞治から世界記録を更新する通算756号本塁打を許した投手……。そんな“亡霊”が、近鉄へ移籍してからも、もしかすると引退してから現在にいたるまでも、取り憑いているように、少なくとも周囲からは見えた。
しかし、小さく断定するが、その“亡霊”は我々だけに見える幻に過ぎない。当の本人は、ヤクルトでの“その後”も、近鉄へ移籍してからも、いたって淡々と投げ続け、そして結果を残した。
ウイニングショットは
シュートだったが、ほとんどの球が打者の手元で沈んだ。ヤクルト時代、一塁手の
大杉勝男は「一塁への送球まで沈む」と苦笑い。そのシュートが狙いを外れ、内角へと入っていった。ただ、その756号は王に許した初の本塁打。それがたまたま、王にとっての756本目だったに過ぎない。だが、それは日本中が待ちわびた瞬間でもあった。王にボールを投げるたびに沸き起こる「逃げるな」の声。実際、王が755号を放ってからは、逃げる投手もいた。だが、さらさら逃げるつもりはなかった。
「勝負は外角へのシュートに決めていました」
このときはフルカウントからの6球目、甘く入ったシュートを見逃さなかった王に軍配が上がった。ちなみに、756号を打たれた投手にサイパン旅行がプレゼントされることになっていたが、行っていない。
「すべて全力で投げた結果です。14勝もできたし、あのことも、いい経験ですよ」
日本一イヤーの翌78年は2本塁打を浴びながらも打率.235と抑え込み、13勝3敗、勝率.813はリーグトップだった。
一方、
中日キラーでもあり、助っ人の
ギャレットは「どうして、あんな緩い球を打てないんだ」と苛立った。80年は中日との開幕戦で先発のマウンドを託され、その後はクローザーも兼ねて11勝5セーブ。転機となったのは83年だ。
井本隆との交換で
柳原隆弘とともに近鉄へ移籍。背番号も21番から“裏返し”の12番になった。
「ちょっと変な感じです」
沈むボールでクローザーに
近鉄へ移籍すると、その沈むボールを見た
関口清治監督が「ええな、これ。これにパ・リーグの打者が慣れるころにはシーズンが終わってるんじゃないか」。そして、先発登板は1試合だけで、クローザーに転向する。
「自分では先発タイプだと思うが、監督の意向も分かる。問題ないですよ」
あっさりと受け入れたクローザー転向だった。規定投球回には届いていないものの、42試合に登板して防御率2.28の安定感で14セーブ。
岡本伊三美監督となった翌84年からはクローザーに専念することになる。
登板は以降3年連続で40試合を超えた。当時の近鉄はエースの
鈴木啓示に全盛期の勢いはなく、投手陣だけで勝ちパターンの見えにくい状態だったが、そんな近鉄を淡々と、しかしガッチリと支えていく。パ・リーグではクローザーの“優勝請負人”
江夏豊が西武で失速。84年は最優秀救援のタイトルこそ優勝した阪急の
山沖之彦に譲ったが、18セーブでセーブ王に。翌85年は左腕の
石本貴昭とクローザーの二枚看板となり、26セーブポイントで最優秀救援投手となった石本が7セーブにとどまったのとは対照的に、12セーブながら2年連続でセーブ王となった。
その翌86年、21試合に登板しながら、やはりあっさりと引退。84年に最優秀救援のタイトルに近づいたときも、こう言っている。
「僕は獲れなくていい。地味な性格なんで、華やかな舞台は苦手なんですよ」
写真=BBM