1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 台湾選手の先駆けとして来日
1980年代は、台湾出身の選手、特に投手の活躍が目立つようになった時代でもある。その先駆けとなったのが81年シーズン途中に来日した中日の郭源治だ。球威もスタミナもあったが、85年に西武へ入団して“オリエンタル・エクスプレス”と称された
郭泰源のように、最初から飛ばしたわけではない。課題は勝負どころに弱いメンタル。ただ、それにはパイオニアならではの苦労もあった。
台湾の南東部にある貧しい農家に7人きょうだいの三男として生まれる。少年時代から運動神経が抜群で、68年にリトルリーグの台湾代表に選ばれて、世界大会に優勝。
「大会の後、1カ月くらいチームであちこちに招待してもらって、王様のような暮らしをしました。それが解散して家に戻ると、すごく貧乏。学校へ行くのも裸足です。そのとき僕、泣いちゃった。ただ、そういう経験があると、人間はずっと上にいられないことが分かる。すごく強くなれたと思います」
その後、華興高から合作金庫、輔仁大を経て、兵役に就く。当時の台湾にはプロ野球はなく、日本球界から誘われた。日本の球団など故郷の英雄でもある
王貞治のいる巨人しか知らなかったが、最初に声をかけたのは
ロッテ。同じ投手の李宗源(のち帰化して
三宅宗源)と2人で入ることが決まりかけていたが、
「一番、熱心に誘ってくれたから、そこ(中日)がいいかな、って。このまま台湾にいても自分の人生が見えてしまう。それに僕、挑戦したかった。お金も欲しかったですからね」
と笑うが、台湾の球界を背負う意識はあった。
「僕がダメだったら、台湾の選手はダメと言われてしまうでしょ。失敗はいけない。日本で成功することが僕の使命だった」
兵役の影響で81年の開幕には間に合わず、7月に来日。球団はマンションを用意してくれたが、通訳も断って合宿所に入った。
「僕は人生を懸けて来たんですよ。大変だけど、それを乗り越えないとダメと思った」
だが、言葉の壁は想像を超える高さで立ちはだかった。説明が分からないから、複雑なサインプレーにも対応できず、試合で間違え、そのたびに罰金を取られる。孤独感に襲われ、もう帰ろうと何度も思った。
「当時、僕は無口と言われた。当たり前よ、日本語しゃべれないんだからね(笑)」
日本球界のレベルも想像よりも高かったが、手ごたえもつかんだ。82年には9勝でリーグ優勝に貢献、翌83年からは4年連続2ケタ勝利。そして87年、
星野仙一監督が就任すると、ロッテへ移籍した
牛島和彦に代わるクローザーへの転向を指示される。
「なんで僕なんだと思った。牛島からは抑えのつらさを聞いていましたから」
周囲も「郭は抑えには優しすぎる」と疑問の声を上げたが、これが完全にハマった。
88年にクローザーとしてMVPに
メンタルが弱いと言われていた先発のときとは別人のような投球で闘志むき出し。87年から2年連続で最優秀救援投手、88年はプロ野球記録を更新する44セーブポイントで優勝の立役者となり、MVPにも輝いた。
「星野さんはマウンドで僕にボールを渡すときがうまい。刺激のあることを言って、それで僕は燃えるんだ。この人は僕の操り方がうまいなって思っていた(笑)」
翌89年には日本に帰化したが、90年代は故障もあって起用法が一定せず。91年は先発に戻って13勝、93年は先発と救援の併用で、94年は先発が多くなり防御率2.45で最優秀防御率。だが、ヒジ痛も悪化して、97年に開場したナゴヤドームのこけら落としとなったオープン戦が引退試合となり、帰国した。
しかし、故郷の台湾で「半年、休んだら治った」と台湾プロ野球で現役復帰。統一、和信で43歳まで投げ続けた。最後まで球速は140キロ台の後半をマークしていたという。苦労人らしく優しい男には間違いなかったが、芯は誰よりも強かった。
「人生は挑戦。挑戦しないで逃げることが一番いけないんです」
写真=BBM