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プロ野球1980年代の名選手

テリー 西武に黄金期を呼び込んだ勝負強き好漢/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

黄金時代を呼び込んだ助っ人


西武・テリー


 アメリカ合衆国はカリフォルニア州。大都会のロサンゼルスで知られるが、育ったのは田舎だった。少年時代、メジャーの試合を見に行きたくても、あまりもの貧しさに行くことができず、悔しい思いをしたという。

 舞台は変わって1981年、日本の埼玉県は3年目の西武球場だ。毎月1回、休日のデーゲームに、一塁側の内野指定席のうち150席に、交通遺児や母子家庭の子、身体が不自由などで社会に対して障害のある子たちが招待された。人呼んで“テリーズ・ボックス”。テリーとは、西武1年目のテリー・ウィットフィールド。当日は客席にも顔を出して、子どもたちと触れ合った。メジャーではジャイアンツの中軸を担い、子どもたちを球場に招待するのは当時から続けていたものだという。

 好漢、瞬く間に子どもたちのハートをつかむ。開幕から2カ月に満たない5月の秋田遠征では、西武ベンチの上に立って「頑張れ、頑張れ、テリー!」と、1人の選手だけに熱烈な応援を送る子も登場。その声援に応えるかのように、24日の近鉄戦ダブルヘッダー第2試合(秋田八幡)で9回表に決勝打を放って、その子にサインボールをプレゼントした。ちなみにラストイヤーとなった83年、西武球場の“テリーズ・ボックス”に、この秋田の少年の姿があったという。

 単なる善意の男ではない。球場に屋根などなかった時代、試合の雨天中止も少なくなかった。天気のことで人間にはどうすることもできないことながら、肩を落とすファン。そんなとき、カバーで覆われたホームベースに水しぶき上げてヘッドスライディングしてファンを喜ばせたのも、この助っ人だった。常に弱い者や困っている人の味方。それでいて勝負強く、特に大舞台で抜群の力を発揮するのだから、ファンはたまらない。

 82年からは広岡達朗監督が率いて、なんとなく冷たい雰囲気もあった西武を明るく照らした太陽だったと表現しても、異論は少ないだろう。この男の存在なくして、その後の西武黄金時代はなかったというのは言い過ぎだろうか。ただ、わずか3年の在籍ながら、それくらいのインパクトを残し、それ以上にファンから愛された男だったことは間違いない。

 たびたび守備のポカはあったが、1年目の81年からスティーブ、田淵幸一らとクリーンアップを形成。助っ人に期待される長打では22本塁打にとどまったものの、100打点、リーグ3位の打率.316とチームの躍進に貢献する。シーズン通算では2年連続で4位だったが、内容は違った。81年は前期2位で、シーズン通算勝率では西武となって初めて5割に到達。黄金時代へと突き進んでいく態勢が着々と整いつつあった。

ポストシーズンで真価を発揮


 独特のドライブがかかったライナー性の打球が持ち味。左打者ながら左投手を苦にせず、Aクラスのチームとの対戦で燃える。積極的に初球から打ちにいき、長打は強く引っ張ったが、安打は広角に打ち分けた。西武となって初のリーグ優勝を飾った82年は、勝利打点こそ大きな差はなかったが、打撃3部門では前年の数字を超えられず。真価を発揮したのはポストシーズンだ。

 2勝1敗でリーグ優勝に王手をかけた日本ハムとのプレーオフ第4戦(後楽園)では2点ビハインドの5回表に決勝の逆転満塁弾。中日との日本シリーズでは3勝2敗で迎えた第6戦(ナゴヤ)で4打数4安打、7回表には片平晋作に続く2者連続本塁打をバックスクリーンにブチ当て、9回表には意表を突くセーフティーバントで初の日本一に貢献した。

 3年契約の3年目、クラウチング気味の構えから上体を真っすぐにする構えに変更して臨んだ83年は自己最多の38本塁打。巨人との日本シリーズでは、またしても最終戦の第7戦(西武)で、2点ビハインドの7回裏、無死満塁から走者一掃の逆転二塁打で連続日本一を決めている。

 勝負強き好漢に対して、西武が契約延長を望んだのも当然だろう。だが、メジャーへ復帰すべく、オフに西武を去っていった。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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