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背番号物語2019

【背番号物語2019】「#4」初の永久欠番には“後継者”が続々

 

背番号は、ある選手が引退しても、またある選手に受け継がれていく。2019年も新たな後継者が誕生した。その歴史を週刊ベースボールONLINEで振り返っていく。

激しい新陳代謝



 2019年は日本ハム、DeNA西武で新たに「4」の選手が誕生した。日本ハムの谷口雄也は「64」からの変更で、他2人は新人だ。18年にも3選手が「4」の系譜に加わっていて、ここ数年の新陳代謝は激しい。

 日本プロ野球で初めて永久欠番となったのが、この「4」だ。巨人黒沢俊夫が1947年のシーズン中に急死したことで、44年に戦死した沢村栄治の「14」とともに永久欠番となったものだが、実は、世界初の永久欠番も「4」。メジャーで本格的に背番号が採用された1929年から、ルー・ゲーリッグ(ヤンキース)が病魔で引退を余儀なくされるまで背負い続けたのが「4」で、日本では“死”と音が通じることから忌み数とされ、特に1リーグ時代は欠番が多く、その後も米国から来日した外国人選手に与えられることが多かったが、彼らにしてみれば忌み数どころかレジェンドの背番号だ。

 ゲーリッグの志を継承するように異国の地で活躍した選手が多い。近年はシーズン本塁打記録を更新したバレンティンの印象が強いが、ヤクルトと近鉄を初優勝に導いたマニエル、阪急黄金時代のマルカーノや、中日で長く活躍したマーチン、モッカ、ゴメスの3選手もVの使者となった。

【12球団・主な歴代「4」】
巨人 永沢富士雄、黒沢俊夫★

阪神 駒田桂二、バッキー、川藤幸三、キーオ、熊谷敬宥

中日 大沢清杉山悟、マーチン、モッカ、藤井淳志

オリックス バルボン、阪本敏三、マルカーノ、水谷実雄福田周平

ソフトバンク ハドリ、ジョーンズ森脇浩司柳田聖人川島慶三

日本ハム 飯島滋弥五十嵐信一奈良原浩飯山裕志、谷口雄也☆(2019年〜)

ロッテ 沼沢康一郎柳田利夫、ディアズ、酒井忠晴藤岡裕大

DeNA ボイヤー、吉本博横谷彰将荒波翔伊藤裕季也☆(2019年〜)

西武 基満男片平晋作笘篠誠治高木浩之山野辺翔☆(2019年〜)

広島 小坂佳隆、水谷実雄、正田耕三尾形佳紀小窪哲也

ヤクルト 佐竹一雄、マニエル、笘篠賢治度会博文、バレンティン☆

楽天 高須洋介後藤光尊岡島豪郎
(☆は2019年、★は永久欠番)

“助っ投”に名二塁手も


広島・正田耕三


 1ケタの背番号では投手が多いのも特徴だ。阪神では外国人選手で初めて沢村賞に選ばれたバッキーから、低迷期を支えたマット・キーオが継承。その父のマーティ・キーオも南海で「4」を着けていた。なお、同時期に別々のチームで「4」を着けたのが笘篠誠治、賢治の兄弟。親子や兄弟がともに「4」というケースもある。

 日本人の投手でも阪神では藪恵壹が後継者となったが、日本ハムでも武田一浩が「4」を着けている。一方、阪神の「4」は川藤幸三やで、というファンも多いだろう。同時期に広島と阪急で優勝に貢献した水谷実雄も強打者だった。異色なのは中日の杉山悟だ。まだ「4」が忌み嫌われていた時代の外野手だが、自ら希望して背番号を「4」に変更、“死”ではなく“よし”と解釈して、「4」の4年目に初の日本一に貢献した。

 高校野球では「4」は二塁手の背番号。プロ野球でも二塁手が「4」を着けることは古い時代から少なくなかった。広島の小坂佳隆は低迷期の名二塁手で、その「4」を黄金時代に継承したのが正田耕三。近鉄の大石大二郎も二塁手で、4度の盗塁王に輝いて「4」に新たなイメージを築いたと言えるだろう。

写真=BBM
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