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プロ野球1980年代の名選手

柏原純一 敬遠球を本塁打したスラッガー/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

Vイヤーに勝負強さを発揮



 2018年からNPBでも導入された申告敬遠制。投手が4球、ボール球を投じることなく、申告すれば四球とみなされる、というものだ。その是非は問わない。ただ、プロ野球の歴史において、わざわざ4球のボール球を投じる、という無駄にも見える段取りの中で、さまざまなドラマが繰り広げられてきた。そしてファンも、投手と捕手がキャッチボールしているだけにも見える行為に興ざめしていくのを感じながらも、「何か起きるのではないか」という淡い期待を抱いて見守る。

 かつて巨人の長嶋茂雄はバットを持たずに打席に立った。1980年代には、敬遠は醜いタイトル争いのツールとなり、投手や打者の人間味も垣間見られた。極めて珍しい場面ではあるが、それだけに、ひとたび波乱が起きれば球史に残る貴重なワンシーンとなる。

 1981年7月19日の西武戦(平和台)、6回裏二死三塁の場面。打席に立ったのは日本ハムの主砲で四番打者の柏原純一だった。マウンドには左腕で左キラーの永射保。五番で続くのは永射がカモにしているソレイタだ。ここで、右のスラッガーを敬遠する判断は間違っていない。“段取り”のボール球が続けて投げられる。だが、その3球目。やや甘く入った(?)ボール球を強振すると、打球は左翼席へ飛び込むダメ押しの2ランとなった。

 南海時代は兼任監督だった野村克也を慕い、その退団に際しては江夏豊とともに球団へ反旗を翻した。トレード要員とされ、日本ハムへ移籍が決まっても、拒否。最終的には日本ハムの説得に応じて78年に移籍した。この“肥後もっこす”ぶりもあって熱血スラッガーという印象もあるが、状況に応じて強打と巧打を使い分ける頭脳的な打撃が持ち味。敬遠球を本塁打にしたのは独断だったが、続くソレイタが永射を苦手としていることを計算してのものだった。実際、永射は続投し、ソレイタは空振り三振に倒れている。

 ただ、熱血漢であったことも確かだ。南海で野村の「柏原の打撃は一軍で通用する」というコメントを新聞で読んで頭角を現したように、日本ハムでも大沢啓二監督の「優勝するためには、お前が打たないと」という檄に発奮して、81年も前半戦は低迷したが、後半戦に爆発。前年の80年は自己最多の34本塁打、96打点と強打が多かったが、その81年は主にクルーズとソレイタの間を打つ四番打者として、16本塁打と長打は減らしながらも打率.310、得点圏打率.326をマーク。安定感と勝負強さを発揮する。

 後期優勝の立役者となり、ロッテとのプレーオフではMVP。日本ハムとなって初のリーグ優勝は、自身にとっては唯一の美酒ともなった。

80年代の前半は全試合出場


 内角が苦手だったが、プロの後輩でもあるロッテの落合博満を参考に、腕の力を抜いて回転で打つようにして克服。追い込まれるまでは速球か変化球のどちらかに狙いを絞り、カウントを稼ぐ球や投手の勝負球を待つ。そして、フリーに打てる場合は引っ張る強打、走者がいる場合は右方向へ巧打など、状況に応じて打ち分けた。80年からは5年連続で全試合に出場。まさに80年代前半の日本ハム打線における主軸だった。

 だが、85年は94試合の出場に終わると、オフに金銭トレードで阪神へ。翌86年には規定打席未満ながら打率.313をマーク。日本ハムでは遠ざかっていた外野守備に加え、四番打者の掛布雅之が欠場した際には三塁にも回り、ベテランとは思えない柔軟さで失速していく新天地を支える。しかし、87年からは腰や右足の故障が悪化して、成績も低迷。88年限りで現役を引退した。

 話は敬遠に戻る。ただ、時は流れて99年だ。阪神の新庄剛志が6月12日の巨人戦(甲子園)で延長12回、槙原寛己の敬遠球をサヨナラ打に。その背中を押した打撃コーチこそ、かつて敬遠球を本塁打にしたスラッガーだった。いずれも貴重な一場面だったが、申告敬遠制では2度と見ることができないだけに、その稀少価値はグンと上がっている。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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