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平成助っ人賛歌

90年代を代表するアイドル助っ人“プリクラキング”ホージー

 

ド派手な練習用ヘルメット


練習用ヘルメットにファンからもらったプリクラをびっしりと貼っていた


 プロ野球界のプリクラ王。

 5月発売予定の平成プロ野球本の執筆資料として、雑誌『小学5年生』97年11月号を見ていたら、そんなページがあった。今から22年前の平成9年秋、表紙を飾るのはジャニーズJr.の滝沢秀明と小原裕貴、中の記事には広末涼子、ともさかりえ、篠原ともえ、MAX、河相我聞、フランスW杯最終予選を戦うサッカー日本代表から岡野雅行が登場。「ポケモン超5大企画」でミュウの限定テレホンカードプレゼントもある。思えば遠くへ来たもんだ。当時、この雑誌を読んでいた小学5年生も今は30歳を超えているだろう。

 そして、プロ野球選手として唯一ここに登場するのがヤクルトスワローズのドゥエイン・ホージーである。読者の小5情報部員の少年が、自身のプリクラをホージーのヘルメットに貼ってもらおうと神宮球場を訪ねるほのぼの企画。そう、ホージーのトレードマークと言えば、ファンからもらったプリクラをびっしりと貼ったド派手な練習用ヘルメットだった。最初は「そんなもの貼るな」と怒る野村克也監督だったが、ファンからの贈り物を大切にしたい気持ちを伝えると、やがて何も言わなくなったという。

 その“野村再生工場”と称されたノムさんでさえ、この男の才能は見抜けなかった。178センチ、80キロの筋肉質の30歳はいかにもメジャー・リーガーと思いきや、来日初年度の97年春のユマキャンプでは、あまりの弱肩ぶりに加え、打撃練習において極端なアッパースイングでポップフライを連発。なのに背番号10は悪びれることなく、流れてくる音楽に乗って腰をフリフリしながら練習を続ける。

「なんやアイツは、真面目に野球をやってるんかい?」「誰や、こんな使いものにならん選手を獲ってきたんは。ワシは四番が欲しかったんや」なんてボヤく名将の姿。ボールの握り方すらおぼつかないホージーが、本格的に野球を始めたのはなんと19歳のときである。

底抜けに明るいムードメーカー


とにかく陽気な性格でチームを明るくした


 ダメ外国人、史上最低の助っ人、開幕前から内外で酷評の嵐。だが、獲得に携わった丸山完二編成部長は「精神的な面でチームを変えてくれる存在になる。ハングリーで、野球に対する真摯な姿勢は絶対にプラスになる」と前を向き、ホージー本人も決してあきらめていなかった。ユニフォームのポケットには、表紙にカタカナで『デュウェイン・ホージー』と書かれたメモ帳をいつも忍ばせ、打席が終わると配球を熱心にメモ。わずかメジャー通算52試合の出場で、すでに30歳とこのヤクルトでのプレーが自分にとってラストチャンスだ。神宮球場で試合がある日は、主力選手の中では一番早く球場に現れ、入念に打ち込み。若松勉打撃コーチや金森栄治打撃コーチ補佐の助言にも素直に耳を傾けた。

「とにかくチームが勝つためならどんなことでもやる。そのために日本に来たのだから」

 ハングリーかつ、底抜けに明るいムードメーカー。チーム内の呼び名はホージーが大ファンの横綱・曙太郎からとって“タロー”。やがて周囲を巻き込み野村監督をクリントン、古田敦也はブライアン、池山隆寛はJ・J、飯田哲也がビリーとなんだかよく分からないニックネームをつけて喜び、練習中には「タケヤー、サオダケー」の掛け声で盛り上げてみせる。

 開幕2戦目の巨人戦(東京ドーム)で早くもホームランを放ち、5月末からは三番に定着。6月には月間MVP受賞。これには野村監督も「研究熱心さは買えるな。2度続けて空振りしても、3度目は当てよる」と徐々に評価。週べの名物コーナー「熱闘97’EXPRESS」では『野村監督、最大の“誤算”? もしも“たろう”がいなかったら……ヤクルト快進撃の陰にホージーあり』の記事が確認できる。

まさかのホームラン王に


97年日本一の祝勝会では侍に扮してプールに飛び込んだ


 そして、ニューヨーク・ヤンキースに入団したばかりの伊良部秀輝が表紙の週刊ベースボール97年7月28日号には、ホージーの独占インタビューが掲載。ボスのノムさんについては「野村監督は確かに素晴らしい監督で有能だけど、監督という人種は基本的にはみな同じだね。どの監督もプレーヤーに100パーセントの力を出してもらいたいと思ってるし、そうさせようと苦心しているからね」と冷静に距離を置き、ひょうきんな面とマジメな面にかなりギャップがあるがと突っ込まれると、「うん、それがボクなんだよ。プレーするときは一生懸命プレーをするし、ふざけるときはふざける。ビジネスとプライベートを使い分けているとも言えるかな」なんて悪役プロレスラーのように割り切った仕事術を語る。なおプリクラについては、ファンの一人が「ヘルメットに貼ってください」と持ってきたのが始まりだという。
 
 夏のオールスターにも初選出され、第2戦では2安打1打点に2盗塁も決め優秀選手賞に選出。後半戦はホージー自らが「メジャーで通用する」と認めた巨人の松井秀喜とのデッドヒートを制し、最終的に38本塁打でまさかのホームラン王のタイトルを獲得してみせる。137試合、打率.289、38本塁打、100打点、OPS.965、走っては20盗塁と文句なしの好成績を残し、チームも横浜との優勝争いに競り勝ち、開幕から1度も首位を明け渡すことなくリーグ制覇。東尾西武との日本シリーズも4勝1敗で一蹴する。第2戦の6回一死満塁で、ホージーの止めたバットのグリップエンドにボールが当たる超ラッキータイムリー内野安打は、シリーズ史に残る珍プレーのひとつとして今でも語り草だ。

 強く、明るく、楽しい、子どもたちのヒーロー。「君こそヤクルトの輝ける星だ」と称賛する『週刊ベースボール』から、野球界のニュースターとして『小学5年生』まで席巻したホージー。100万ドルプレーヤーとなり迎えた翌98年は、左肩亜脱きゅうや両ヒザ痛に悩まされ満足にプレーできず、オフに解雇されてしまったが、あらためてわずか2シーズンの在籍ということに驚かされる。だって、今でも多くの野球ファンはあの陽気な“90年代を代表するアイドル助っ人”のことを鮮明に覚えているのだから。

 なお私生活は真面目で、酒・タバコは一切やらず、ヌードが出ている雑誌のインタビューは受けない意外な一面も持つ、愛すべきプリクラキングだった。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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